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日立鉱山の鉱害問題(ひたちこうざんのこうがいもんだい)では、茨城県日立市にあった日立鉱山で発生した、鉱毒に汚染された排水と亜硫酸ガスを含んだ排煙による鉱害問題とともに、鉱害解消に向けて採られた様々な対策と鉱山経営者と鉱害被害者との交渉によって問題の解決へと導いた経緯について記述する。 == 明治以前の鉱毒水問題 == 日立鉱山の前身である赤沢銅山は、1625年(寛永2年)頃から銅の採掘を開始したと考えられている〔島崎(1988)「水戸藩の鉱山政策と赤沢銅山」pp.20-21、日立市(1994)p.592〕。そして17世紀前半の採掘開始当初から、赤沢鉱山は近隣にかなり深刻な鉱毒水被害を発生させていた〔現日立市内では16世紀末の佐竹氏統治時代に金の採掘が行われていたことが明らかとなっていて、また日立鉱山の赤沢鉱床に当たる部分には佐竹坑と呼ばれる金の採掘跡と考えられる遺構が残されており、日立鉱山の開発が16世紀に遡る可能性はあるが、文献資料から確認されるのは17世紀前半の寛永年間以降のことである〕。 赤沢銅山での寛永年間の採掘は、1640年(寛永17年)頃まで続けられた。享保年間以降に書かれたと推定される古文書と1907年(明治40年)に編纂された「赤沢銅山沿革史」によれば、鉱毒水が水田に流れ込むことによる減収のため、1646年(正保3年)以降、宮田川流域の約60石分に当たる水田の年貢が免除となった。1650年(慶安3年)には被害水田のうち47石あまりは鉱毒に汚染された土の除去を行うなどの土壌改良を行ったため、3ヵ年の年貢免除の上、1653年(承応2年)に年貢率の低い水田に格付けされた。そして17世紀には1640年(寛永17年)以降も永田茂衛門とその息子である永田勘衛門による赤沢銅山開発の試みが3回行われたが、やはり宮田川流域の水田に鉱毒被害を発生させたことなどが原因で開発は頓挫した〔島崎(1988)「水戸藩の鉱山政策と赤沢銅山」p.22、島崎(1988)「村と鉱山」pp.26-28〕。 1705年(宝永2年)には、幕府の後援を受けて豪商の紀伊国屋文左衛門らが参画した赤沢銅山の銅採掘が行われた。この時も宮田村の水田に鉱毒水が流れ込み、2割以上の水田が著しい不作のために年貢が免除される事態に陥るなど、かなり大規模な鉱害が発生したこともあって開発は中止に追い込まれた〔島崎「村と鉱山」p.28〕。度重なる鉱害により、その後水戸藩は赤沢銅山の開発申請が出されても、鉱害問題を理由に許可を出さないようになった〔島崎「村と鉱山」pp.28-29〕。 水戸藩が赤沢銅山の開発を許可したのは、幕末の1861年(文久元年)、大塚源吾衛門の開発申請時である。この時も地元では鉱毒水問題の再発を懸念して鉱山開発の反対意見が出されたが、藩は以前と比べて採鉱、選鉱、精練などの技術が進歩していること、そして万一鉱毒水問題が発生した場合、経営者の大塚源吾衛門に補償させることを約束して反対意見を説得し、赤沢銅山の開発が行われることになった。鉱害問題を鉱山経営者の補償で解決するという判断がこの時点で成立していたのは注目され、江戸時代に鉱毒被害を受けた水田の年貢減免が実施されていたことと併せて、鉱毒問題は補償で解決を図るという慣習が成立していったことは、その後の鉱山の発展に伴って鉱害の被害拡大した際の事態解決に影響するようになった〔菅井益郎、1975、『一橋大学機関リポジトリ 日立鉱山煙害事件』pdfファイル 、 島崎(1988)「村と鉱山」pp.29-30、橋本(1988)「煙害と地域社会」p.196〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日立鉱山の鉱害問題」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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