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日興(にっこう、寛元4年3月8日(1246年3月26日) - 元弘3年/正慶2年2月7日(1333年2月21日))は、鎌倉時代の僧侶。日蓮の高弟六老僧の一人であり、白蓮阿闍梨と称する。日興門流の祖。富士大石寺の開山にして、日蓮正宗第二祖に列せられる 。 == 略歴 == * 寛元4年(1246年)3月8日、甲斐国大井庄鰍沢(山梨県富士川町鰍沢)で誕生。 * 正嘉2年(1258年)、富士岩本の実相寺へ入室。名を伯耆房と賜わる。2月、日蓮が『立正安国論』の執筆に際し大蔵経を閲覧するため岩本の実相寺へ入った折、弟子となった。 * 弘長元年(1261年)5月12日、日蓮が伊豆に配流(伊豆流罪)され、日蓮正宗の文献『日興上人詳伝』によると、日興が同行して常随給仕をしたとされる。また伊豆宇佐美・吉田の地を弘教した。 * 弘長2年(1262年)、熱海真言僧金剛院行満が、日興の折伏により改衣して日行と名乗り、自坊を大乗寺と号した(日興上人詳伝)。 * 文永8年(1271年)10月10日、日蓮が相模依智本間邸を発し佐渡に向かった際(佐渡流罪)、日興が同行して常随給仕をしたとされる(日興上人詳伝)。 * 文永11年(1274年)、佐渡一ノ谷を出発し、日蓮身延山に入る。甲斐、駿河で布教をした。このころ日目、はじめて日興に謁す。 * 建治元年(1275年)1月下旬、南条家に到り故兵衛七郎行増の墓に代参し、富士下方を弘教した。日興の教化により、駿河熱原滝泉寺寺家下野房日秀・越後房日弁・少輔房日禅・三河房頼円、及び在家若干が帰伏して弟子となった。日興及び日向・覚乗房富士加島高橋家で弘教した。 * 建治2年(1276年)4月8日、日目、伊豆走湯山円蔵坊において日興により得度。 * 弘安2年(1279年)1月、興津時業、日興書写の法華経一部を請く。9月20日、日蓮、書を日興に与える。10月12日、日蓮、書を日興のほか、日秀・日弁等に報じ滝泉寺申状草案を与う。10月15日、日興等、鎌倉より日蓮に法難の状を急報する。10月17日、日蓮、書を日興はじめ日秀・日弁等に報ず。『三大秘法口決』を記す。日興に文永11年(1274年)12月の本尊〔万年救護本尊〕を与える。 * 弘安3年(1280年)2月、日興、遠江の新池家に在り。 * 弘安4年(1281年)、日興、園城寺申状を代奏す〔初度天奏〕。 * 弘安5年(1282年)9月、日蓮は『日蓮一期弘法付嘱書』(身延相承)をもって日興を本門弘通の大導師と定め、10月13日、『身延山付嘱書』(池上相承)をもって身延山久遠寺の別当職(貫主)と定めて死去した、と日蓮正宗では主張している。その一方で、日蓮宗は、両書を宗祖滅後150年頃成立の偽書と位置付けて同主張を是としておらず〔に、身延山の開山は宗祖、2世は日向とある。〕、日興身延在山時代には、「日興は自身を院主、日向を学頭に当て〔た〕長老合議制」が敷かれていた、としている。日蓮正宗では、両書をあわせて『二箇相承書』としている。 * 弘安10年(1287年)10月13日、初めて大曼荼羅本尊を書写(宮城県登米市・上行寺所蔵)。 : その後、日向や、身延の地頭・波木井実長との意見の相違から、日興は身延山を降りた (身延離山)。 * 正応元年(1288年)12月16日、身延山久遠寺を出立、越前房の私坊に逗留する。 * 正応2年(1289年)6月5日、富士河合の由比入道の家に逗留する。しばらくして駿河国上野郷の南条時光の館(現在の下之坊)に逗留する。 * 正応3年(1290年)10月12日、南条時光の寄進により大石寺が建立し、翌日の10月13日、日興は日目に内々に法を付し、大石寺学頭として、第三祖日目が一門の統率をした。同年、弟子らにより宿坊が建立された。 * 永仁6年(1298年)2月、足かけ10年過ごした大石寺を離れ、日興は重須談所(大石寺近郊、現在の北山本門寺)に移った。 * 正慶2年(1333年)1月13日、二十六箇条の『遺戒置文』をもって将来の指針を示し、2月7日、88歳をもって、35年に渡って住んだ重須にて死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日興」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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