|
本項では、日本とフィンランドとの二国間関係について述べる。 == 歴史 == 最も早い時期に公的な立場で日本を訪問したフィンランド人は、エカチェリーナ2世の命により交易調査のために日本に派遣されたアダム・ラクスマンで、1792年に根室に上陸した。次いで、1879年に冒険家アドルフ・エリク・ノルデンショルドが北極海航路を通り、横浜港に到達している〔フィンランド関係機関 (駐日フィンランド大使館)〕。国交樹立の約20年前からは、フィンランド人宣教師が日本での活動を行っている〔日本とフィンランドの協力関係-外交関係樹立90周年を迎えて- (2009年5月27日に開催された日本フィンランド協会総会でのヨルマ・ユリーン駐日フィンランド大使の講演)〕。 1917年に独立宣言を採択したフィンランドは、1919年に日本から独立の承認を得た。日露戦争で実力を示し、コンニ・ジリアクスなど、フィンランド独立運動活動家に対して支援を行った日本からの承認は、フィンランドにとって大きな意味をもつものであった。まだ自国の外交官がいなかったため、ルードルフ・ホルスティ外務大臣は、外務省外の人材としてアルタイ語を専門とするヘルシンキ大学教授のグスターフ・ラムステッドを初代公使に任命した。地政学上ロシア極東部の情勢を把握しやすい位置にあることもあり、日本はアジア諸国のうちフィンランドが常駐使節を送った最初の国となった。ラムステッドはマルセイユから日本へ向かう伊予丸の船中で、ロンドンで購入した書籍や日本人乗客の協力により日本語を学んだ。日本に着く頃には流暢な会話ができ、通訳を依頼する必要がないほどであった。1919年晩秋、築地精養軒ホテルに在外フィンランド公館を開設。1920年5月には麻布の旧アルゼンチン大使館に移転したが、1923年9月の関東大震災により喪失した。 両国間の貿易が始まったのもこのころであり、1920年代初めには日本の絹製品や陶器がフィンランドで知られるようになる。1930年代にはフィンランドから日本へパルプなどの工業製品の輸出が始まった〔FCCJの背景 (在日フィンランド商工会議所)〕。 1920年代半ばにはソビエト連邦極東部の軍事的緊張が緩和したことから、駐日フィンランド外交官の活動は通商・政治に重点を置く。1920年代末になると、日本の軍部に国粋主義が台頭し始めた。1941年からは日本の軍事行動により、フィンランドの外交団は大きな制約を受けることとなる。そして1944年には両国間の国交は断絶した。 1952年、フィンランド政府と連合国軍最高司令官総司令部との協議により、日本にフィンランドの通商代表を駐留させることに合意。在日フィンランド通商代表部・総領事館と在ヘルシンキ日本総領事館を開設した。総領事館は1957年に正式に公使館となる。1962年9月26日、ヴィルヨ・アホカス大使が天皇に信任状を奉呈した時点で、公使館は正式に大使館に指定された。 1977年2月には、ケイヨ・コルホネン外務大臣が日本に初の公式訪問。同年12月には、カレヴィ・ソルサ首相が、日本で開催された社会主義インターナショナルの国際会議に出席した。日本からは1985年に安倍晋太郎外務大臣、同年に皇太子・皇太子妃、1987年には中曽根康弘内閣総理大臣がフィンランドを公式訪問するなど、交流を深めている〔フィンランドと日本の外交関係 (駐日フィンランド大使館)〕〔初代駐日フィンランド公使 G.J.ラムステットの知的外交 (駐日フィンランド大使館)〕。2000年5月には天皇皇后両陛下が、オランダ・スウェーデン訪問の際にフィンランドに立ち寄っている〔天皇・皇族の外国ご訪問一覧表(平成11年~平成20年) (宮内庁)〕。 2011年の東日本大震災の際には、タルヤ・ハロネン大統領から天皇陛下に宛ててお見舞い表明があったほか、寄付金や物資の支援があった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本とフィンランドの関係」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|