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日英同盟(にちえいどうめい、''Anglo-Japanese Alliance'')は、日本とイギリスとの間の軍事同盟。1902年1月30日調印発効、1923年8月17日失効〔第一次日英同盟は、1902(明治35)年1月30日に調印され即時に発効した。その後、第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新され、1923年に失効した。〕。 第一次世界大戦の終了後しばらくまでの間、日本の外交政策の基盤となった。 これを契機として日本は金準備の大部分をロンドンに置き、その半分以上はイギリス国債に投下したり、またはロンドン預金銀行に貸し付けるようになった〔吉岡昭彦 『近代イギリス経済史』 岩波書店 1981年 p.276.〕。 同盟はロンドンのランズダウン侯爵邸〔現The Lansdowne Club 地図 〕において、林董駐英公使とランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス外相により調印された〔それから遡ること120年前の1782年、アメリカ合衆国の独立を認めるパリ条約が、この全く同じ場所(日英同盟の調印されたランズタウン侯爵邸)でイギリスの首相シェルバーン卿(後のランズダウン侯)とベンジャミン・フランクリンによって作成されている。〕。 == 概要 == === 経緯 === イギリスは義和団の乱以来、満州から撤兵しないロシアを牽制したいと考えていたが、イギリス単独ではイギリスの中国における利権の維持にあたるには限界があった。そこで、それまでの「栄光ある孤立」政策を捨て〔「栄光ある孤立」政策放棄の原因としては、ボーア戦争での予想以上の苦戦や、強制収容所や焦土作戦に対する国際的非難があった。〕、まずドイツとの交渉を試みるも、ドイツはロシアと手を結んだため失敗し、その後義和団の乱で活躍した日本に接近した。日本では、伊藤博文や井上馨らがロシアとの妥協の道を探っていたが、山縣有朋、桂太郎、西郷従道、松方正義、加藤高明らはロシアとの対立はいずれ避けられないと判断してイギリスとの同盟論を唱えた。結果、日露協商交渉は失敗し、外相小村寿太郎の交渉により日英同盟が締結された。調印時の日本側代表は林董特命全権公使、イギリス側代表はペティ=フィッツモーリス外務大臣であった。 第一次日英同盟の内容は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものである。また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。条約締結から2年後の1904年には日露戦争が勃発した。イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。 第二次日英同盟では、イギリスのインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認めあうとともに、清国に対する両国の機会均等を定め、さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けられた(攻守同盟)。 第三次日英同盟では、アメリカが、交戦相手国の対象外に定められた。ただしこの条文は自動参戦規定との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかったが、これは日本、イギリス、ロシアの3国を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。 第一次世界大戦後の1919年、パリ講和会議で利害が対立し、とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が否決されたことは禍根として残り〔MSN産経ニュース【グローバルインタビュー】 - ヒュー・コータッツイ元駐日英大使「日本の人種差別撤廃条項を米英が否決したのは誤り」 〕、1921年、国際連盟規約への抵触、日英双方国内での日英同盟更新反対論、日本との利害の対立から日英同盟の廃止を望むアメリカの思惑、日本政府の対米協調路線を背景にワシントン会議が開催され、ここで、日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約が締結されて同盟の更新は行わないことが決定され、1923年、日英同盟は拡大解消した〔2007年2月18日 NHK BS特集『世界から見たニッポン 大正編 日本はなぜ孤立したのか』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日英同盟」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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