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旧多摩聖蹟記念館 : ウィキペディア日本語版
旧多摩聖蹟記念館[きゅうたませいせききねんかん]

旧多摩聖蹟記念館(きゅうたませいせききねんかん)は、東京都多摩市連光寺にある歴史的建造物・展示施設。多摩市指定文化財及び東京都景観上重要な歴史的建造物である。
== 概要 ==
旧多摩聖蹟記念館は、明治天皇の当地への行幸を記念して作られた施設で、1930年(昭和5年)11月に元宮内大臣田中光顕が中心となり、当時の人々の土地の寄付や工事の協力などによって、現在の都立桜ヶ丘公園内に建設、開館された。聖蹟(聖跡)とは時の天皇が行幸した地の呼称で、他にも日本各地に「聖跡」と称する記念碑等が見受けられる。
記念館開設に先立つ1928年(昭和3年)、明治天皇御製及び昭憲皇太后の御歌の碑が建てられ、翌1929年(昭和4年)に東京浅草橋場にあった対鴎荘の建物を移築し、付属庭園を設けたのが始まりである。明治天皇は、1884年(明治17年)の臨幸の際、狩場を跋渉したとき、谷間から鶯の一声が聞こえそぞろに心を動かし、「春深き山の林にきこゆなり今日を待ちけむ鶯の声」と詠んだ。皇后(昭憲皇太后)は「春もまだ寒きみやまの鶯はみゆきまちてや鳴きはじめけむ」「兎とる網にも雪のかかる日にぬれしみけしを思ひこそやれ」と詠み、これら3首の碑が建てられたものである。碑材は小豆島産の花崗岩、文字は田中光顕の揮毫にかかる。
対鴎荘は、記念館までの道の左手、向丘にあった草葺の1棟の建物である。もと浅草の大川端にあった三条実美の別邸であった。1873年(明治6年)三条は征韓論のもつれから心痛のあまり病んで引きこもっていた。明治天皇は三条を一度は虎ノ門の三条邸に見舞ったが、ふたたび三条が病を養う橋場の別邸におもむいた。そのときの玉座の間が対鴎荘の客間であった。対鴎荘は現存しない。
明治天皇は、明治10年代、30歳代の頃、連光寺の山や多摩川(現在の市立多摩中学校付近)にて兎狩や(明治14年・1881年2月)や鮎漁(同年6月)を行うため当地を訪れ、1882年(明治15年)2月、1884年(明治17年)3月を含め4回ほど訪れている。多摩聖蹟記念館は、この行幸をしのび田中光顕らにより造られたもので、大正天皇が武蔵陵墓地に埋葬された折、京都(伏見)に埋葬されている明治天皇を偲ぶ記念館を関東に、ということで造られたものである。
当館は、70年代には仮面ライダー他いくつかの特撮番組のロケ地として何度か使用されている。1986年(昭和61年)には多摩市指定文化財及び東京都景観上重要な歴史的建造物に指定された。同年、財団法人多摩聖蹟記念会から多摩市に寄贈され、現在の名称に改称された。
館は近代式鉄筋コンクリート造り、両袖の付いた円形の大殿堂で、設計は関根要太郎蔵田周忠で、オーストリアウィーン分離派ドイツユーゲント・シュティールと呼ばれる建築デザインの影響が見られ、多摩地区の近代建築の中でも大変貴重なものである。施工は大倉土木株式会社(延べ工事人員5870人)である。
館内は、渡辺長男作の明治天皇騎馬等身像(明治14年2月、明治天皇30歳、肋骨付きの陸軍服を着用、料馬金華山に騎乗)、田中光顕が収集した坂本龍馬肖像など幕末明治に活躍した人物の書画等や、多摩の植物の写真を展示しているほか、有料であるがギャラリーとしても利用できる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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