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早坂文嶺[はやさか ぶんれい] 早坂 文嶺(はやさか ぶんれい、寛政9年(1797年) - 慶応3年4月3日(1867年5月6日)は、江戸時代後期から末期に活躍した日本の絵師。アイヌ絵を残したことで知られる。一時は四条派の絵師・前川文嶺と同一人物とも言われたが、現在では別人だとわかっている。 == 略伝 == 山形城下で活躍していた表具屋・義川斎定信の子として生まれる。義川斎定信は、表具師の傍らでこの頃の山形では人気の高い絵師だったらしく、現在も山形市周辺に相当数の作品が確認されている。定信と文嶺の作品には共通する画風が見られ、父から絵を習ったと推測される。父のもとで山形の城下町で成長し、城下の旅籠屋で表具師を家業としていた。弘化年中に松前藩に士分として仕え〔河野常吉編『北海道史人名字彙』北海道出版企画センター、1979年。〕、松前昌広に愛されたともいわれる。ただし同時代の史料では町年寄支配の町人として記載されている〔松前藩の町年寄を勤めた林家の文書『松前町年寄詰所日記并番日記』。〕。墓は松前町正行寺。 最も得意としたのは仏画とされるが、今日ではアイヌ絵の絵師として注目され、また武者絵にも佳作が残っている。主にアイヌ絵に使われる「二司馬」の号は、アイヌ語で「地位や身分が高く、財力もそなえた人格者」を意味する「ニシパ」に漢字を当てたものとされる。現在、文嶺の作品は30数点ほど確認されている。 なお後に文嶺の子・元長は、松前藩政を尊王に変えるため、慶応4年(1868年)にクーデターを起こした正義隊に名を連ねている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「早坂文嶺」の詳細全文を読む
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