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早田 俊幸(はやた としゆき、1968年5月2日 - )は日本の岐阜県出身の陸上競技選手。専門は長距離走・マラソン。1994年広島アジア競技大会男子マラソン銀メダリスト、1995年世界陸上イェーテボリ大会男子10000m日本代表。 == 経歴 == * 県立岐阜商業時代、高校2年生まで野球部に在籍したが、その後陸上競技部に転部。高校の後輩にはシドニーオリンピック・女子マラソン金メダリストの高橋尚子らがいる。 * 高校卒業後の1987年、カネボウに入社し同社陸上競技部に所属する。主に駅伝大会での活躍は目覚ましく、必ず前を走るランナーをしとめることから「駅伝ハンター」の異名をとった。1988年、瀬古利彦の引退レースとなった国際千葉駅伝に出場。男子の部の1区(10・0km)を走り27分56秒という2013年8月現在でも国内的には十分「トップレヴェルの記録」として通用する高水準の記録をマークし,一躍脚光を浴びた。 * 1992年のバルセロナオリンピック・男子マラソン代表選考会となった東京国際マラソンでは、優勝した森下広一と2位の中山竹通らと初マラソンながらレース終盤までデッドヒートを繰り広げた。共にバルセロナ五輪代表入りした森下・中山にはあと一歩届かなかったが3位でゴール、瀬古・中山らに続く日本マラソン界のホープとして期待された。 * 1994年の広島アジア競技大会・男子マラソンでは、優勝した黄永祚(韓国)と終盤まで競り合い、惜しくも黄に及ばなかったが2位入賞・銀メダルを獲得した。 * 1995年の世界陸上選手権男子10000m決勝には渡辺康幸と共に日本代表として挑んだ。ハイレ・ゲブレシラシエ・ポール・テルガトら錚々たる面々と戦い、8位入賞は逃したものの、27分53秒12の自己新記録をマークして10位の成績を残した。 * 1996年開催のアトランタオリンピック代表の期待が高まったが、男子マラソン代表選考会の福岡国際マラソンで途中嘔吐症状で立ち止まり30位、東京国際マラソンでも足のケガで途中棄権に終わり、アトランタ五輪代表入りはならなかった。 * アラコに移籍した1997年の福岡国際マラソンで、当時国内現役最高記録となる2時間08分07秒を記録し復活。その後、熊本陸協を経てユニクロに入社。この時は中国電力など、マラソンのトップランナーのいる広島市に練習拠点を置き、ユニクロ広島庚午店の店頭にも立った。 * 2000年開催のシドニーオリンピック代表入りを目指したが、男子マラソン代表選考会の福岡国際マラソンで7位、びわ湖毎日マラソンでも9位に終わった。同2000年から本田技研に所属。その後は駅伝とトラック競技を中心に活躍した。 * 2003年6月に現役引退。社業に専念する傍ら、市民ランナーとして各地のマラソン大会に出走している。近年ではシドニー五輪代表の川嶋伸次との対談や、トレイルランへの参加など、新たな道を模索して活動中である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「早田俊幸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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