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曽我祐準 : ウィキペディア日本語版
曾我祐準[そが すけのり]

曾我 祐準(そが すけのり、「すけゆき」とも、天保14年12月25日1844年2月13日) - 昭和10年(1935年11月30日)は、日本の陸軍軍人政治家陸軍中将勲一等子爵
== 略歴 ==
家禄は120石の柳河藩士・曾我祐興(七郎左衛門)の次男として生まれる。兄は曽我祐正。母は国学者西原晁樹の次女の民子。学問や武道を好み、長崎砲術を学び、イギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーの援助で上海香港シンガポールを航海し、航海術を学んだ。
明治元年(1868年)に海軍御用掛になった。翌年に海軍参謀として箱館戦争に出征し功績を挙げる。明治6年(1873年陸軍少将となり、同年鎌倉での初めての天覧演習で総指揮官を務めた。その後兵学頭、陸軍士官学校校長などを歴任、西南戦争1877年)では征討第四旅団長として鎮圧にあたった。竹橋事件1878年)の時には陸軍士官学校長として戸山学校生を派遣して皇居の警備にあたらせた。山縣有朋大山巌ら陸軍内の藩閥勢力に対し反主流派を形成、明治14年(1881年)の開拓使官有物払下げ事件では、同じ反主流派の三浦梧楼谷干城鳥尾小弥太と連名で、議会開設及び憲法制定を訴える建白書を提出する。明治15年(1882年)に参謀本部次長となって陸軍改革にあたり、翌年中将に進む。明治17年(1884年7月8日に子爵を授かる。明治19年(1886年)に参謀本部の権限問題をめぐって陸軍省と対立、職務を辞任する。その後軍籍を離れて明治21年(1888年)に明宮(のちの大正天皇)の御教育主任となる。陸軍中心の軽武装論を唱え、議会開設前後の時期の軍備論争の一方の雄となった〔原田敬一『帝国議会誕生--今の国会と何が違うか!』文英堂、2006年。柴崎力栄「国家将来像と陸海軍備をめぐる海軍と徳富蘇峰 」大阪工業大学紀要人文社会篇56巻1号、2011年10月。〕。
明治24年(1891年)、宮中顧問官。同年貴族院議員子爵互選に当選し、以後は谷干城らと共に土曜会の中心人物として、政界内に隠然たる勢力を持ち続けた。明治31年(1898年日本鉄道社長。明治43年(1910年)4月1日、軍を退役〔『官報』第8035号、明治43年4月8日。〕。大正3年(1914年)のシーメンス事件では、予算委員長として第1次山本内閣打倒に関与した。大正4年(1915年)4月27日、枢密顧問官となる〔『官報』第819号、大正4年4月28日。〕。大正13年(1924年)、祐準は隠居し、家督を子の曾我祐邦に譲った。大正15年(1926年)に大正天皇の容体が悪化し、祐凖は一か月の間葉山御用邸に何度も伺候した。
昭和10年(1935年)、熱海の小嵐亭で死去。享年93。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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