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曾我時致[そが ときむね]
曾我 時致(そが ときむね)は、鎌倉時代初期の武士。『曾我兄弟の仇討ち』で知られる。 安元2年(1176年)、3歳の時、実父・河津祐泰が同族の工藤祐経に暗殺される。その後、母が兄と自身を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁する。建久元年(1190年)9月7日、北条時政を烏帽子親として元服、その偏諱を賜って時致と名乗ったとされ〔『吾妻鏡』建久元年九月七日条には筥王(時致)が兄・祐成に連れられて時政の所に赴き、時政の御前において元服した旨の記載が見られ、その場所として時政の邸宅が利用されていたという(『真名本曾我物語』巻第五(所収:『真名本曾我物語1』(参考文献掲載)P.253)に「北条殿の御宿所」において元服した旨の記載が見られる)。これは、兄・祐成が以前より時政に参勤しており、祐成が仲介役となって主人と仰ぐ時政に自身の弟の烏帽子親となるよう依頼したことにより実現したものであるとする見解も出されている。以上の記述は山野龍太郎論文(山本、2012年、P.166・169・175、参考文献参照)による。〕、その後は時政の庇護の下にあったという。 建久4年(1193年)富士の巻狩りが行われた際、兄・祐成と共に父の敵・工藤祐経を殺害した。兄は仁田忠常に討たれ、時致は将軍源頼朝の宿所を襲おうとしたが捕らえられた。翌日、頼朝の取調べを受けた際、仇討ちに至った心情を述べて頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児・犬房丸(伊東祐時)の要望により処刑された。 == 脚注 ==
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「曾我時致」の詳細全文を読む
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