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曾我廼家 五郎(そがのや ごろう、本名:和田 久一、1877年9月6日 - 1948年11月1日)は、日本の喜劇役者・喜劇作家。 大阪府堺市か岸和田市出身の二説あり。「笑って泣かせる」スタイルで舞台俳優として活躍する一方で、「幸助餅」「葉桜」「張子の虎」「へちまの花」など自選「36快笑」を含め1000余りの脚本を遺した。自称「泉州堺の産・一堺漁人」。 == 経歴 == 1890年、13歳の時母とともに丁稚奉公に大阪に出る。2年後、歌舞伎俳優・中村珊瑚郎の弟子となり中村珊之助として、翌年の1893年浪花座で初舞台を踏む。 1902年、大阪福井座で中村時蔵(後の3代目中村歌六)の弟子の中村時代、のちの曾我廼家十郎と出会う。別年、曾我廼家一満とも出会う。 1903年、珊之助と時代を改め五郎と十郎を名乗る。 そして1904年、それまでの俄に飽き足らなくなった三人は師匠の下を飛び出し、新しい笑いを作るべく「曾我廼家兄弟劇」を一満、五郎、十郎の三人で伊丹・有岡座で旗揚げした。同年には堺・宿院の卯之日座と尼崎・桜井座で初めての興行を打ち成功。日露戦争をネタにした「無筆の号外」が大当たりした。しかし1913年芝居観の違いから、十郎と別れ五郎一座となる。以後再び「喜劇」の名を使うことはなかった。この頃渡欧し欧州の芝居・喜劇を学び、帰国後五郎劇を結成する。その後度々平民劇団、曾我廼家五郎劇、五郎劇と改名する。平民劇団時代は本名で演じていた。 1920年頃から社会劇に移行。1936年所得番付一位。1937年自らが選んだ脚本を、三十六歌仙にあやかり「36快笑」として天満天神に奉納する。1938年には両国国技館で横綱の土俵入りのお笑い芝居を演じた。喉頭癌で声が出なくなっても道頓堀中座の舞台に立ち続けた。 日本の近代喜劇の第一人者として、榎本健一、古川ロッパら喜劇人の尊敬を集めた。特にロッパは、声の出なくなった五郎に、得意の声帯模写で代役を勤めたいと申し出た。 曾我廼家五郎八に没する直前、楽屋で脚本をしたためながら「五郎八よ、やっぱり芸人は舞台に出てナンボやなあ、楽屋にいてるモンと違うな」と呟いたという。 死後の1948年12月、中座で松竹新喜劇が結成された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「曾我廼家五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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