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最上兼頼 : ウィキペディア日本語版
斯波兼頼[しば かねより]

斯波 兼頼(しば かねより)は南北朝時代の武将。最上兼頼とも呼ばれる。奥州探題斯波家兼の次男で、羽州探題最上氏の祖。
== 生涯 ==
伯父高経、父家兼とともに越前国に逃れた新田義貞と戦い、兼頼の配下が義貞を討ち取ったと言われている。源氏累代の名刀「鬼切」は兼頼の手に渡り最上氏の家宝となった。家兼が北陸から奥州に移ると、兼頼も共に下向する。延文元年(1356年)、出羽地方の北朝方として寒河江大江氏山家氏などの南朝方の抵抗を抑えるために、出羽国山形に入部し、山形城を築いた。貞治6年(1367年)に鎌倉公方足利基氏が死去した後、出羽を含む東国の各地で南朝方が蜂起したが、漆川の戦いにおいて、鎌倉公方を継いだ足利氏満や、兄で奥州探題大崎直持と共に南朝方の寒河江大江氏を攻撃し降伏させた。また、近隣の里見氏に弟の義宗を養子に送り、一門とするなど武力政策と婚姻・養子政策を駆使し、山形斯波氏(後の最上氏)の基礎を築いた。兄の直持は奥州管領家の大崎氏の祖となった他、弟の持義将頼らも奥州に子孫を残したとされ、足利一門の名家という出自を思わせる。永和元年(1375年)、嫡男の直家に家督を譲って以降は城内に草庵を結び念仏三昧の日々を送った。
子孫の最上氏は戦国時代最上義光の出現によって飛躍的に領土を広げ、江戸時代初期に幕府によって改易されるまで、現在の山形県内陸部の米沢地方を除く、村山地方最上地方庄内地方を支配した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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