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最高裁判所事務総局(さいこうさいばんしょじむそうきょく)は、日本の最高裁判所において、その庶務を掌らせるために置かれる附属機関。法律上は最高裁判所長官の監督の下、最高裁判所事務総長によって掌理される。職員数は2008年の時点で約760名である。 == 概要 == 裁判所法には「最高裁判所の庶務を行う」とのみ記され、その具体的に行うべき事務は明示されていないが、最高裁判所規則・最高裁判所規程に基づいて複数の局・課や様々な役職が置かれると共に、各課の所掌事務が定められており、法律上は最高裁判所の裁判官会議の議に基づいて行われる司法行政事務に携わると定義されている。しかし、最高裁判所も含めて日本の裁判官は非常に多忙であり、実際の裁判官たちは裁判官会議に時間をかける余裕がないため、裁判官会議は最高裁判所事務総局が決めた事を追認するだけの形骸化した会議に過ぎず、実質的には最高裁判所事務総局が日本の司法行政権の全てを掌握する形になっている〔西川伸一『日本司法の逆説 最高裁事務総局の「裁判しない裁判官」たち』110-114ページ、新藤宗幸『司法官僚 裁判所の権力者たち』189-195ページ。〕。 通常、最高裁判所事務総局の主な機能は大きく以下の6つに分類できるものと解釈されている〔新藤宗幸『司法官僚 裁判所の権力者たち』50-52ページ。〕。 * 最高裁判所の規則・規定の作成 * 法律・政令の制定に関する法務省との交渉・調整 * 裁判官の人事に関する機能 * 裁判所の予算に関する機能 * 全国の高等裁判所長官・地方および家庭裁判所の所長を招集し、最高裁判所事務総局からの各種通達や協議を行う『裁判官会同・協議会』の実施 * 海外の裁判制度に関する調査研究、各級裁判所における判決・検察や弁護人の主張・弁護士界の動向などの分析や、それに関係する資料の収集と整理 これらの機能は、大日本帝国憲法の時代に日本国内の全ての裁判所と裁判官を支配・統制していた司法省から受け継がれたものである。 敗戦後の1946年(昭和21年)、司法省に「臨時司法制度改正審議会」が設置され、司法省存続の是非、最高裁判所の構成、弁護士制度の関する議論が始まり、司法官僚を中心に、司法省の解体・廃止を狙う連合国最高司令官総司令部(GHQ)との折衝が行われていた。同審議会は同年7月12日に裁判所法、検察庁法、最高裁判所裁判官国民審査法の要綱をまとめたが、裁判官の人事権や予算編成権などの、全国の裁判所を統制する権限を巡って司法省(検事)と大審院(判事)との間で論争となった。司法省側は戦前と同様に人事・予算ともに司法大臣が権限を持つべきと主張したのに対して、大審院側は人事・予算に関する権限があってこその司法権の独立であると主張し、両者の対立が激化した〔野村二郎 『日本の裁判官』 講談社現代新書 p.170〕。 戦前、司法省では「検尊判卑主義」が公然と囁かれており、検事局・司法省・裁判所の要職を、検事がほぼ独占していた。そのため、判事は検事よりも格下の扱いだった〔御厨貴 『権力の館を歩く 建築空間の政治学』 ちくま文庫 p.246〕。こういった事情から、大審院(判事)には、司法省(検事)に対する強烈な拒否反応が生じていた。 最終的にGHQは最高裁判所が人事権と予算編成権を持つべきだと決定を下し、1947年(昭和22年)5月3日、裁判所法と検察庁法が日本国憲法施行とともに施行され、新裁判制度がスタートした。 最高裁判所事務総局は、日本国憲法施行後に、GHQによる司法改革(司法省の解体・廃止)の一環として新設された最高裁判所に移籍した旧司法官僚の判事〔司法省の人事課長から最高裁判所事務総局の初代人事局長になり、後に最高裁判所長官になった石田和外などがその代表である。〕によって設立された機関であり、事務総局の組織自体も司法省を参考に編成された。このため、最高裁判所事務総局は「司法省の戦後の再編成版」とも呼ばれ〔西川伸一『日本司法の逆説 最高裁事務総局の「裁判しない裁判官」たち』106-107ページ。〕、現在も司法行政の中枢機関として、日本国内の全ての裁判官の職務に多大な影響を及ぼしている。 なお、旧司法官僚のうち検事は法務庁(現・法務省)と検察庁を設立し、最高裁判所事務総局と法務省は司法省の廃止後も判検交流と呼ばれる人事交流を積極的に行うなど〔刑事裁判の部門における判検交流は2012年度から廃止されたが、民事裁判の部門における判検交流は現在も続けられている。〕、付かず離れずの関係を維持し続けながら現在に至っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「最高裁判所事務総局」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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