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有若(ゆう じゃく)は、孔子の弟子のひとり。 『論語』学而篇では有子(ゆうし)と呼ばれ、曽子、冉子、閔子〔ただし閔子は閔子騫の脱字の可能性あり。金谷(1963)p.146 では閔子騫に作る〕とならんで「子」がつけられていることから、重視されていたことがわかる。 == 略歴 == 『孔子家語』七十二弟子解によれば有若は魯の人で、字は子有であったという。 有若の生年は文献によって一致せず、『史記』仲尼弟子列伝は孔子より43歳若いとし、『史記索隠』に引く『孔子家語』では33歳若いとしていたという(現行の『孔子家語』では孔子より36歳若いとする)。没年については『礼記』檀弓の記事より、魯の悼公の時(在位前467年-前437年)に没したことがわかる。いずれにせよ紀元前6世紀後半の生まれで、紀元前5世紀中頃に没したことになる。 『孟子』滕文公上の伝えるところによると、有若は孔子に風貌が似ていたため、孔子の死後、子夏・子張・子游らが孔子のかわりに有若に仕えようとしたが、曽子がこれを批判したという。『史記』にも似た話があり、他の弟子がかつての孔子の言行について有若に質問をしたが、有若が答えられなかったため、孔子のかわりにはできないと批判されたという。 『論語』学而篇に有若の言葉が3回引かれている。「和を以て貴しとなす」〔金谷(1963)では「以」の字がなく「和を貴しと為す」とする〕「孝弟なる者はそれ仁の本たるか」などは広く知られている。顔淵篇では哀公の問いに答えているが、有若と孔子との直接の対話は記録されていない。 『春秋左氏伝』哀公8年の記事にも有若が登場する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「有若」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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