|
有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)は、縄文時代の土器形式のひとつ。 口縁部に内壁を貫通する直径5mm程度の小孔が列状に数個から20個程度空き(有孔)、胴体中央部に鍔状隆帯がある(鍔付)。一般的な深鉢型土器と異なり樽型や壺型のものが多い。口部上面は平坦で、蓋をすることができたと考えられている。これらの特徴から鍔付有孔土器、蓋付樽型土器などの呼称も用いられていたが、武藤雄六により「有孔鍔付土器」の呼称に統一された。 == 特徴と変遷 == 胴体には動物意匠文をはじめさまざまな装飾文様が施され、両肩部には把手が設けられている。出土数は極端に少なく、胎土も精選されており出土状況も特異であり、口縁部に把手の付いた釣手土器とともに祭祀に関わる土器であると考えられている。小孔が空けられる理由については土器の使用目的と関係して諸説あるが(後述)。鍔状隆帯は、焼成や使用の際に自重のかかる胴体中央部の補強目的であると考えられている。 現在の長野県から山梨県の中央高地において縄文時代前期末期から中期終末にかけて特徴的に見られ、中期に盛行し関東地方を中心に分布する。縄文中期終末には消滅し、注口土器に代わる。 縄文時代前期末期の諸磯式期には有孔鍔付土器の祖形である口縁部に小孔の空いた浅釜型の有孔土器が出現する。小孔は無文上か二条の浮線上に空けられており、鍔部の原型になる膨らみも見られる。安定性は悪く、地面に窪みを設けて安置していたと考えられている。成立期には中間型がみられ、やがて直立口縁や鍔状隆帯が完成し、小孔数も減り胴体上方の屈曲部に一定数穿たれる。中期初頭には橋状把手が設けられ、器種も樽型や壺型など多様化し、大型化する。中期中葉には胴体に赤色顔料が施され、製作技術の進歩から小孔や鍔状隆帯が形式化しはじめる。中央高地から北陸、関東はじめ東日本各地に拡散する。西日本では有孔土器はみられるものの、有孔鍔付土器は福井県と岐阜県での中期後葉段階の出土例を西限に見られない。例外として長崎県深堀貝塚での中期後葉段階の出土例があり、これは胎土が九州西部のものであることから何らかの形で製作技術が伝来したと推測されている。 中期後葉には小孔が鍔部へ設けられるようになり、装飾文様が焼失し縄文や渦巻文が一般的となる。中央高地では小孔や鍔状隆帯が完全に消失し、両肩に把手の付けられた広口壺形の両耳壺に統一されるが、関東地方では形式的な小孔が保持された。中期終期には有孔鍔付であるが注口部のあるものや、深鉢で胴体がひょうたん形に縊れたものが見られ、注口土器に至る。 また、同じく中央高地に特有的に出土し祭祀的意味のあったと考えられている人面装飾付土器(人面・土偶装飾付土器)の特徴を兼ね備えた人面装飾付有孔鍔付土器も確認されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「有孔鍔付土器」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|