|
有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう、文化9年1月5日(1812年2月17日) - 明治19年(1886年1月24日)は、幕末・明治期の日本の皇族。有栖川宮韶仁親王の第一王子。 == 人物 == 幼児期は八穂宮(やほのみや)と称した。文政5年11月15日(1823年12月27日)、光格天皇の猶子となり、同6年9月23日(1823年10月26日)、12歳(数え)で親王宣下、幟仁の名を受け、翌月元服する。 弘化4年8月4日(1847年9月13日)、二品に叙せられ中務卿に任命される。 元治元年(1864年)5月には、熾仁親王とともに国事御用掛に任命された。しかし、直後に禁門の変が発生。その際、熾仁親王が長州の復権と松平容保の洛外追放を訴えて御所内で周旋活動をしたことから両親王は長州との通謀疑惑をかけられ、孝明天皇の意を受けた関白二条斉敬によって国事御用掛を罷免された上、謹慎および蟄居を命じられた。 慶応3年1月15日(1867年2月19日)、明治天皇の践祚に伴い処分が解かれたが、幟仁親王はこれ以降政治的な表舞台には姿をあらわさず、打診された国事御用掛への復職も辞退している。その後、慶応3年12月20日(1868年1月14日)に一品に叙せられているが、中務卿の位は、律令官の廃止に伴って明治2年7月12日(1869年8月19日)に返上している。 王政復古の大号令によって、熾仁親王は新政府の総裁職に就任した。幟仁親王も慶応4年2月20日(1868年3月13日)に議定に任命されたが、表立った活動をしないまま議定職の廃止を迎えた。幟仁親王は政治から距離を置く代わり、慶応4年1月17日(1868年2月10日)に神祇事務科総督に就任したのを皮切りに、国家神道や国学の普及に努めた。明治4年(1871年)7月25日、家督を熾仁親王に譲り正式に隠居した後も、神道総裁や皇典講究所(國學院大學の前身)総裁などを歴任した。 幟仁親王は維新以後の急速な社会の欧米化に対して消極的であった。すでに皇室の公式行事では洋式の大礼服を着用する事が義務付けられていたが、生涯を通じて洋装を拒んだ幟仁親王だけは特例として、明治天皇から和装での参加を許されていた。また、終生髷を切らず、西洋の薬も一切口にしなかった。その一方、オルゴールや洋時計などの蒐集を趣味としていた。 有栖川宮の歴代当主同様、書道および歌道の達人であり、第五代・職仁親王によってあみ出された、いわゆる「有栖川流書道」を大成させた。さらに、昭憲皇太后に歌道を、明治天皇に書道と歌道を指南したほか、五箇条の御誓文の正本も幟仁親王によって揮毫されている。 明治19年(1886年)1月24日、前年から胃癌で闘病していた幟仁親王は危篤に陥り、その報を知った明治天皇は急ぎ大勲位に叙し、菊花大綬章を授けた。同日、73歳で薨去。豊島岡墓地に埋葬された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「有栖川宮幟仁親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|