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栽仁王(たねひとおう、1887年(明治20年)9月22日 - 1908年(明治41年)4月3日)は、明治期の日本の皇族。勲等は大勲位、階級は海軍少尉。 有栖川宮威仁親王の第一王子(男女合わせた王子女の中では3人中2番目)で、 母は加賀金沢藩主前田慶寧の四女・慰子。公爵徳川慶久の夫人となった實枝子は実妹。 ==経歴== 1887年(明治20年)9月22日、父・威仁親王25歳、母・慰子23歳のときに誕生。この2年前の1885年(明治18年)には姉となる績子(いさこ)女王が誕生しているが、翌年夭折している。 1901年(明治34年)6月、威仁親王とともに参内した栽仁王に、明治天皇は父宮と同じく帝国海軍士官を志すよう命じた。これにより、1905年(明治38年)、広島県江田島の海軍兵学校に第36期生徒として入学した。しかし、卒業間近の1908年(明治41年)3月初旬、王は激しい腹痛に襲われ、「盲腸炎」(虫垂炎の当時の呼称)と診断される。開腹手術を受け一時は小康状態を保ったが、4月に入って容態が急変。4月3日、江田島において20歳の若さで薨去した。喪が秘され、大勲位叙勲、菊花大綬章授章、海軍少尉任官などの栄典が授けられたのち、公式に薨去が発表されたのは4月7日である。 明治天皇の皇女の結婚相手の一人に浮上したが、有栖川宮家に狂人(利子女王)がいたため同意を得られなかった。結局、栽仁王は結婚しないまま夭折した。このことは後に宣仁親王と栽仁王の姪である徳川喜久子との結婚の際にも問題となった〔児島襄「天皇Ⅱ 満州事変」235~237頁 文春文庫〕。 当時の皇族中では伏見宮に次ぐ伝統を持った名門宮家の有栖川宮は、旧皇室典範の規定に基づき、継嗣たる栽仁王を失ったことによって廃絶が確定した。しかし、これを憂慮した大正天皇は、後にその第三皇子・宣仁親王に有栖川宮の旧称・高松宮の号を与え、有栖川宮の祭祀を継承させた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「栽仁王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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