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有馬 是馬(ありま これま、1906年ころ〔『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「有馬是馬」の項(p.30)を参照。同項執筆は奥田久司。〕 - 1963年8月20日)は、日本の俳優である。本名牟田口 茂(むたぐち しげる)。有馬 茂明(ありま しげあき)の名でデビュー、のちに改名した。サイレント映画時代の京都の撮影所の名物スタッフから喜劇役者に転向、「ムーランルージュ」で花開く。 == 来歴・人物 == 1906年(明治39年)ころ東京市(現在の東京都)に生まれる。京都の日活大将軍撮影所の照明部のスタッフとなったが、当時から所内の人気者であった〔。 1928年(昭和3年)6月、マキノ・プロダクションの喜劇俳優の中根龍太郎が独立して興した「中根コメディプロダクション」に、東亜キネマ京都撮影所(等持院撮影所)の大部屋俳優だった榎本健一を連れて参加、22歳のころに俳優に転向する。中根プロには、のちに映画監督小崎政房であり剣戟俳優・松山宗三郎となる前の結城三重吉、のちに大乗寺八郎となる前の千葉三郎がいた。中根プロは3本の喜劇映画を撮って解散した〔〔『日本映画俳優全集・男優編』の「有馬是馬」の項(p.30)、「中根龍太郎」の項(p.407-408)には、どちらも『助太刀商売』と『おんぼろ草紙』の2本を撮って解散した旨の記述があるが、東京国立近代美術館#フィルムセンター公式サイト内の「日本映画の発見I 無声映画時代 」には、同プロダクションの作品『娘十八花婿指南』(1928年)が紹介されている。これを加えて「3本」とした。〕。中根が妻の女優泉春子の実家を頼って向かった佐賀県唐津町(現在の唐津市)へ、有馬も小崎とともに同行し、浪花節芝居の一座に入った〔。 同年の暮れ、中根が11月に松竹下加茂撮影所に迎えられると、中根の推薦で有馬と小崎も同撮影所に入社する。しかし翌1929年(昭和4年)、有馬は同撮影所を退社してレヴュー一座を興し、巡業を始める。1931年(昭和6年)12月31日、東京・淀橋区角筈(現在の新宿区新宿三丁目)に「ムーランルージュ」がオープンすると、これに参加し舞台に上がる。芸名の「有馬是馬」は同劇場の経営者佐々木千里が命名した〔。 1934年(昭和9年)にはP.C.L.映画製作所製作の藤原釜足主演映画『続・只野凡児』に出演する。時代はトーキーである。翌1935年(昭和10年)、大友壮之介、鳥橋弘一とともに、板橋区東大泉町(現在の練馬区東大泉)の新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)に入社、山路ふみ子・東海林太郎の『国境の町』ほかに出演、1936年(昭和11年)には新興キネマと提携している高田稔の「高田プロダクション」製作の『街の艶歌師』などに出演した。1937年(昭和12年)には京都のJ.O.スタヂオの森野鍛冶哉主演作『歌う弥次喜多 京大阪の巻』に出演しているが、このころには「ムーランルージュ」に戻ったり、樺太から台湾まで、全国の旅回りを始めている。「ムーラン」の女優明日待子を発掘したり、望月優子の相談に乗ったり、面倒見がよかった〔。1939年(昭和14年)には小崎がいる大都映画でオリジナル脚本を書いている。 第二次世界大戦後は、1950年代に大映、東映、新東宝と各社で脇役に顔を出していたが、1959年(昭和34年)、柳家金語楼主演の『おトラさんのホームラン』を最後に姿をみかけなくなる。 1963年(昭和38年)8月20日、新宿区大久保で死去。推定57歳没。友人が集まって偲ぶ会を開こうと、100枚の案内状を出したところ、90名以上が出席したという〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「有馬是馬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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