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有馬晴信 : ウィキペディア日本語版
有馬晴信[ありまはるのぶ]

有馬 晴信(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名で、肥前日野江藩初代藩主。有馬義貞の次男。キリシタン大名で、大村純忠は叔父に当たる。
大友義鎮(宗麟)からは偏諱を賜って初めは鎮純(しげずみ)、鎮貴(しげたか)を名乗っていた(のちに久貴(ひさたか)、久賢(ひさかた)、正純(まさずみ)、晴信に改名〔。
== 生涯 ==
元亀2年(1571年)、兄の義純が早世したため家督を継承した。この頃の有馬氏は、龍造寺隆信やその支援を受けた西郷純堯深堀純賢兄弟の圧迫を受けて、晴信も隆信の攻勢の前に臣従せざるを得なくなったが、天正12年(1584年)に島津義久と通じて沖田畷の戦いで隆信を滅ぼした。しかし、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐においては、島津氏と縁を切り、豊臣勢に加わっている。
家督を継いだ当初はキリシタンを迫害していたが、天正8年(1580年)に洗礼を受けてドン・プロタジオの洗礼名を持ち、以後は熱心なキリシタンとなった。天正10年(1582年)には大友宗麟や叔父の大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣している。天正15年(1587年)に秀吉が禁教令が出すまで、数万を超えるキリシタンを保護していたという。その後も個人的にはキリスト教信仰を守り続けていた。
文禄・慶長の役では、同じキリシタン大名の小西行長の一番隊に属して従軍して渡海。弟波多親は二番隊であった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初、在国のまま西軍に属したものの、西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵された。
慶長14年(1609年)2月、幕府の許可を受けて台湾へ出兵するが、との貿易拠点を築くことは出来なかった。
ところが運命を暗転させる事件が起きる。慶長14年(1609年)、マカオで晴信の朱印船の乗組員がマカオ市民と争いになり、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きた。これに怒った晴信は徳川家康に仇討ちの許可を求めた。そこへマカオにおけるポルトガルのカピタン・モール(総司令官)であるアンドレ・ペソア (Andre Pessoa) がノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(マードレ・デ・デウス号)に乗って長崎に入港したため、晴信は船長を捕らえるべく、多数の軍船でポルトガル船を包囲した。ところが船長は船員を逃がして船を爆沈した。
この事件の後、本多正純の家臣であった岡本大八が晴信に近づき、黒船を沈めた恩賞として家康が有馬の旧領を戻してくれるだろうと持ちかけた。が、これは偽りであり、岡本大八は晴信をだまして口利き料として多額の金子を受け取っていた。これが発覚し、家康は激怒。大八は火あぶりになり、晴信もまた贈賄の罪を問われて甲斐国初鹿野に追放された後で、死罪となった。
キリシタンであった晴信は自害を選ばず、妻たちの見守る中で家臣に首を切り落とさせた(この最後の記述はキリスト教徒側の記録から。日本側の記録では切腹して果てたとされている)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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