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有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月17日 - 昭和32年(1957年)1月9日)は、日本の政治家。農政研究者。農林大臣。日本中央競馬会第2代理事長。プロ野球オーナー。旧筑後国久留米藩主・有馬家の第15代当主。伯爵。 ==経歴== 旧筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男として東京に生まれる。母は岩倉具視五女恒子(後に寛子と改名)。頼寧の出生から程なく、母は実家に帰されて離縁された(後に森有礼の後妻となる)。父は戸田忠友長女豊子と再婚したため、頼寧と姉の禎子は邸宅のうち嫡祖母・韶子の住む棟で育った。4歳の頃、日本橋区の本宅が焼亡し、浅草区橋場の別邸に転居する。この邸宅が下町に近かったため、幼少時に近所の下町の子供たちと遊んだという。1890年(明治23年)秋学習院初等科入学。1896年(明治29年)学習院中等科(現 学習院高等科)に進学し、教師の家に下宿した。中等科在学中の1903年(明治36年)2月、北白川能久親王次女貞子と結婚。貞子は結婚に伴い華族女学校を退学した。同年に頼寧は旧制学習院高等科に進学し、1906年(明治39年)東京帝国大学農科(現農学部)に入学。1910年(明治43年)に大学を卒業後、1年2か月欧州を外遊する。帰国後、農商務省に入省して農政に携わり、東京帝国大学農科講師、助教授となり母校で教鞭をとった。夜間学校の開校、女子教育、農民の救済や部落解放運動、震災義捐などの社会活動に広く活躍し、農山漁村文化協会の初代会長や日本農民組合の創立にも関わった。 1924年に立憲政友会から第15回衆議院議員総選挙に出馬して当選した、立候補に当たって有馬家による慈善事業の効果を期待して住居のある東京選挙区、又は旧藩地である福岡2区からの立候補を検討したが、既成勢力の状況を考慮、結局同じく旧藩地である福岡12区より出馬した。華族制度の廃止を唱えていたが、衆議院議員の任期中に頼方の突然の死により有馬家を継いで伯爵に叙爵した後、華族の互選による貴族院議員に挙げられ、1932年に斎藤内閣で農林政務次官。1936年12月から1937年1月にかけて自宅で永井柳太郎、林銑十郎、結城豊太郎、中島知久平らと近衛文麿を首班にする新党結成を話し合う荻窪会談を開いており、これは頼寧自身によれば林内閣の準備でもあった可能性があるという(永井・頼寧・中島は林総理から入閣の誘いが来たものの、拒否してる)〔朴羊信『永井柳太郎論(2・完)-政党政治家を通じて見た政党政治の崩壊過程-』北大法学論集〕。1937年に第1次近衛内閣の農林大臣となった。日中戦争が拡大する中で近衛の側近として大政翼賛会の設立に関わり、1940年に翼賛会初代事務局長に就任するが、翌年の翼賛会の改組により辞任、これを機に公職を退いた。また、1936年より当時の職業野球の東京セネタース → 大洋軍の個人経営に乗り出していた。 第二次世界大戦(太平洋戦争)の終戦後、GHQよりA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに拘置されるが無罪と認められ釈放、その後は引退生活を送った。頼寧は1956年に時事通信社のインタビューで、巣鴨プリズンに拘置されたことに関し「何の理由で自分が戦犯になったのかわからない」といい、敗戦のことに関しても「解せなかった。満州事変、太平洋戦争、敗戦も何となく来てしまった」とコメントし、インタビュアーを驚かせている。 1955年に農林省に招請されて安田伊左衛門の後任として日本中央競馬会第2代理事長に就任、有馬特例法の公布、中央競馬運営方策要綱案の着手、中山競馬場をはじめとする競馬施設改築、競馬国際協定加入、競馬実況中継放送の強化など、競馬の発展や大衆化に尽力した。中央競馬のG1レースの一つである有馬記念は頼寧が創設した「中山グランプリ」を頼寧の死後、競馬への功績を讃えるため改称した。(詳しくは後述) 1957年1月、急性肺炎のため72歳で逝去した。「有馬頼寧関係文書」が国立国会図書館にある。座右の銘は、「もろもろの 心 柳に任すべし」。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「有馬頼寧」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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