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有馬頼徳[ありま よりのり]
有馬 頼徳(ありま よりのり)は、筑後久留米藩の第9代藩主。久留米藩有馬家10代。 == 生涯 == 寛政9年(1797年)6月22日、久留米藩嫡子・有馬頼端(第8代藩主・頼貴の三男)の長男として生まれる。頼瑞は頼貴の世子だったが早世したため、頼徳が祖父頼貴から世子に指名され、文化7年(1810年)には従四位下・侍従・上総介に叙位・任官された。文化9年(1812年)に祖父が死去したため、家督を継いで第9代藩主となり、玄蕃頭に遷任される。 しかし財政難のため、就任早々の幕府による関東河川の手伝い普請で領民に臨時税1,192貫を課したり、文化13年(1816年)には経費を三割縮減した緊縮財政や家中からの米献納を命じたりして、財政改革に取り組んだ。一方で、「月船」「水鴎」といった号を持ち自らの趣味に没頭。文政2年(1819年)から、久留米城内に柳原御鷹場を作り始め、さらに能楽を何度も開くなどして財政をさらに悪化させた。このため、文政6年(1823年)には江戸からの帰国中に旅費不足に陥り、急遽国許の大庄屋中から5,000両を送金させる事態に陥る。翌文政7年(1824年)から、役所整理などの経費節減による財政改革を開始したが、同年から文政11年(1828年)まで毎年洪水または不作に見舞われるという不運も重なった。しかも、こうした中で文政8年(1825年)に柳原の庭園が完成した際には、『柳原八景詩歌』を編纂させている。文政10年(1827年)からは御用金を取り立て、文政11年には上米の増額と万事三か年の省略を命ずるなどしたが、借金はさらに膨れ上がり、天保2年(1831年)には人別銀17,446両を徴収。こうした過酷な取り立てをきっかけに、天保3年(1832年)からは亀王組による国中を巻き込む一揆が起こる有様だったが、同年には場内に焼物窯を開き、柳原焼と称して写し物の製作をさせるなど、趣味への出費が減ることはなかった。 天保2年(1831年)に左少将に遷任される。晩年の天保9年(1838年)には大洪水で大被害を受けたにもかかわらず、諸国巡見使の接待に1万両を費やし、さらなる財政悪化のために家臣へ増上米を命じた。翌天保10年(1839年)8月には、江戸城西ノ丸の普請を命じられ、10月にはとうとう柳原鷹場を取り壊した。天保15年(1844年)4月3日に江戸で死去。享年48。跡を四男の頼永が継いだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「有馬頼徳」の詳細全文を読む
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