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平沢 常富(ひらさわ つねとみ、享保20年閏3月21日(1735年5月13日) - 文化10年5月20日(1813年6月18日)は、江戸時代中期の出羽国久保田藩の定府藩士で江戸留守居〔役職上、須原屋版武鑑に久保田藩士として登場する。佐竹義和#家臣参照。〕。 朋誠堂 喜三二(ほうせいどう きさんじ)の筆名で知られる戯作者、手柄 岡持(てがらのおかもち)の狂名で知られる狂歌師でもある。通称は平角(平格とも)、字は知足〔ちなみに主君の佐竹義和の号の一つに知足斎がある。〕、号は愛洲〔養子先の平沢家は愛洲陰流剣術の祖、愛洲移香斎を遠祖としている。〕。 隠居号は平荷。なお、上記のほか、青本では亀山人、笑い話本では道陀楼麻阿(どうだろう まあ)、俳号は雨後庵月成、朝東亭など多くの筆名や号を使い分ける。 == 略歴 == 江戸の武士、西村久義(平六)の三男に生まれ、14歳で母方の縁戚にあたる久保田藩士・平沢家の養子になった。天明の頃は藩の江戸留守居役筆頭で、120石取りであった。当時の江戸留守居役は、江戸藩邸を取り仕切り、幕府や他藩との交渉を行う、一種の外交官に相当した。 若い頃から「宝暦の色男」と自称して吉原通いを続け(吉原も一種の社交サロンであった)、勤めの余技に手がけた黄表紙のジャンルで多くのヒット作を生んだ。また、田沼時代は武士・町人の間に「天明狂歌」といわれる狂歌ブームが沸き起こり、数多くの連(サークル)が作られた。常富も手柄岡持や楽貧王という名で狂歌の連に参加していた。 しかし、松平定信の文武奨励策(寛政の改革)を風刺した黄表紙『文武二道万石通』を執筆し天明8年(1788年)に上梓したことから藩主・佐竹義和より叱りを受けたらしく、黄表紙からは手を引き、以降はもっぱら狂歌作りに没頭した。 戒名は法性院月成日明居士。墓は東京都江東区深川三好町の一乗院。子の平沢為八や孫の平沢左膳(初め重蔵)も江戸留守居を勤め、用人にも就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平沢常富」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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