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服部二柳 : ウィキペディア日本語版
服部二柳[はっとり にりゅう]
服部 二柳(はっとり にりゅう、本名:辰雄、1904年(明治37年)3月10日 - 1968年(昭和43年)1月1日)は、日本南画家。服部双柳子、服部双柳、二柳散人とも。奇人の南画家として知られる。
== 人物 ==
高祖父は、葛飾北斎弟子浮世絵師大山北李で、父は橋本関雪竹内栖鳳と並び称された南画家の大家・服部五老である。橋本関雪に学び、もとは「双柳」を号としていたが、後に出生地である京都二条柳馬場の「二」と「柳」の二字を取って「二柳」と号した。二柳には共に画を描いたという兄・寛司と姉・夏井がいたが、兄は24歳、姉は35歳で亡くなっている。1935年(昭和10年)関雪に破門されたため、放浪の末に父と離縁し鶴岡に戻っていた母のもとに辿り着く。そして、1938年(昭和13年)には遠縁の松平穆堂らの援助で画会が開催されるのだが、しだいに、汚い身なりをして白い歯をむき出しにしてイヒヒと笑う、などの奇人の如く振る舞いをしたり、絵を描く見返りにお金ではなく食べ物を貰うという、乞食のような生活を送る。そんな二柳を町人達は「ヤッコの二柳」と呼んで馬鹿にした。それを見兼ねた穆堂は、自宅の一隅を二柳に与えて思う存分に絵を描かせた。しかし、1957年(昭和32年)医師に極度の非常識と診断され精神衛生法の適用で鶴岡市立荘内病院に入院させられてしまう。その後は、湯野浜思恩園を経て山形県立療養所 金峯園に入院し1968年(昭和43年)の元旦に、昼食で食べた雑煮のを喉に詰まらせて、窒息したのが原因で死去。64年の生涯を閉じた。二柳は最後まで画筆を離さず持っていたと言う。再従甥にあたる黒羽根洋司は自著の中で二柳の画は「ゴッホに似ている」と語る。また、1929年(昭和4年)頃と思われる時期に、相国寺塔頭・瑞春院に小僧として修行に出されていた水上勉(後の直木賞作家)が、その当時、寺に住み込んで画の練習をしている画家達がおり、その中にいた二柳が風狂画家的で一番印象深かったと、自著『京都遍歴』の中で述べている。代表作には日本南画院展で入選(第4回と第5回のどちらかは不明)した『夢』がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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