|
服部 浩紀(はっとり ひろき、1971年8月30日 - )は、群馬県前橋市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。バルセロナオリンピック予選日本代表。 == 来歴 == === 選手 === 前橋商業高校では全国高等学校サッカー選手権大会で2年連続ベスト4に入った。 1990年に筑波大学へ進学し、同期の藤田俊哉や大神友明とともに関東大学サッカーリーグ戦1部での連覇や総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントでの優勝に貢献した。 バルセロナ五輪の他、全日本ユース代表やユニバーシアード日本代表などにも選出された。 1994年に横浜フリューゲルスにフォワードとして入団。 しかしアマリージャや前園真聖、エバイール等蒼々たるFWを揃えるチームの中でなかなかスタメンを勝ち取ることが出来なかった。 転機は1997年に訪れ、その年にスタメンを奪取するとバウベルとの強力ツートップを形成し自身初のシーズン二桁得点を上げ、1stシリーズ優勝争いの原動力となった。 以後、川崎フロンターレ〔これはレンタル移籍で、川崎にとってはJ1参入決定戦を見据えての補強だったが、福岡との対戦(「J1参入決定予備戦」)では選手登録されなかった。また、この移籍中にフリューゲルスが横浜マリノスへの統合を発表し、服部は天皇杯優勝には参加していない。〕、清水エスパルス、アルビレックス新潟、アビスパ福岡、サガン鳥栖の6チームに在籍。J1リーグ通算158試合出場25得点。J2リーグ通算66試合8得点。 前線からの強烈なプレスを武器に長く第一線で活躍。「アジアのトラ」の異名を取り、特にガツガツいく攻撃的なプレースタイルはサポーターに高い人気を誇った。その一方、その激しさはラフプレーの常習者という印象を審判らに広く与え、途中出場の場合も含め多くの試合で退場(レッドカード)処分を受けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「服部浩紀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|