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朔平門外の変[さくべいもんがいのへん]
朔平門外の変(さくべいもんがいのへん〔「さくべいもん」の読みは『国史大辞典』(吉川弘文館)「朔平門」(朧谷寿執筆)に従った。〕)は、江戸時代末期(幕末)の文久3年5月20日(1863年7月5日)、尊王攘夷を唱える過激派公家として知られた姉小路公知(右近衛少将、国事参政)が、禁裏朔平門外の猿ヶ辻〔事件当時の「猿ヶ辻」の位置と、現在の京都御苑内で「猿ヶ辻」の案内看板が立つ場所とはおよそ100メートルほど離れている。これは事件から数年後の慶応年間に、禁裏(御所)が北東方向に拡張されたことに伴って「猿ヶ辻」の位置も東に移動したことによる。現在「猿ヶ辻」の看板が立っている場所は、事件当時は有栖川宮邸の敷地であった(ページトップの地図を参照)。〕(さるがつじ)で暗殺された事件。猿ヶ辻の変(さるがつじのへん)とも。一殿上人の暗殺に留まらず、当時の中央政局に大きな影響を与え、同年の八月十八日の政変が起きるきっかけにもなった。 ※ 以下、本項における日付はすべて旧暦(天保暦)によるものである。 == 姉小路公知暗殺事件 == 文久3年(1863年)5月20日午後10時頃、朝議を終え、宜秋門から退出して帰宅の途に付いた姉小路公知は、禁裏の築地を北周りに通り、朔平門外を越えたあたりで覆面をした刺客3人に襲われ、顔や胸部に重傷を負った〔町田2009,147ページ、跡見花蹊『花蹊日記』など。〕。ただちに自邸に搬送されたが、そこで絶命した。享年25。事件現場には、犯行に使われたとおぼしき刀と犯人のものと思われる木履が遺棄されていたという。 この事件が起きる以前にも、治安の弛緩や政局の激化に伴い江戸では桜田門外の変、坂下門外の変といった政治的テロ事件が続発、また京都では「天誅」と称する要人襲撃事件が相次いでいた。しかし被害者の多くが幕府関係者ないし親幕府派と見られた公家・武士・地下人・学者などであり、加害者側が尊王攘夷過激派と思われるのに対し、朔平門外の変の場合、被害者の姉小路はむしろ当時の破約攘夷派の代表的存在であり、その点が異例であった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朔平門外の変」の詳細全文を読む
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