翻訳と辞書
Words near each other
・ 朝倉世界一
・ 朝倉中務
・ 朝倉中学校
・ 朝倉伸二
・ 朝倉佐知
・ 朝倉佳代
・ 朝倉信景
・ 朝倉信鏡
・ 朝倉停留場
・ 朝倉健太
朝倉元景
・ 朝倉光玖
・ 朝倉光陽高校
・ 朝倉光陽高等学校
・ 朝倉利光
・ 朝倉利夫
・ 朝倉剛
・ 朝倉加葉子
・ 朝倉匠子
・ 朝倉千筆


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

朝倉元景 : ウィキペディア日本語版
朝倉景総[あさくら かげふさ]

朝倉 景総(あさくら かげふさ)は、戦国時代武将朝倉氏の一門で家臣。朝倉孝景(英林)の四男。
庶腹の出であったため、兄でありながら常に正妻(桂室永昌)の子である異母弟の教景(孝景の五男)の下座に置かれた。これを恨み、文明16年(1484年)7月12日、相撲場で教景を殺害した。教景を養子としていた叔父の朝倉光玖は激怒し、景総は南条郡の宅良慈眼寺へ逃げ、剃髪して許しを請うたという。
その後、光玖の怒りが解けたのか、一乗谷に出仕するようになり、延徳3年(1491年)の管領細川政元越後国下向時の見送り役や、明応5年(1496年)の美濃国船田合戦への派遣軍の大将役などを務めている。また、娘を従弟で敦賀郡司家の朝倉景豊に嫁がせている。しかし、桂室永昌との関係は修復されず、やがて越前国を出奔する。その後、京都に出て細川政元に仕え、名乗りも朝倉弾正忠元景に替える。
文亀3年(1503年)には朝倉景豊・教景(宗滴)らと共謀し、主家である甥・貞景に対する攻撃の計画を企てるが、教景の密告で計画が漏洩、景豊は貞景に本拠の敦賀を攻められ自刃した。近江国から出兵していた景総はこの報を聞き退却し、その後は美濃国・飛騨国を経て加賀国に入った。
加賀で反朝倉の兵を募った景総は、翌永正元年(1504年)8月、加賀一向一揆の協力の元越前坪江に出陣し、貞景に決戦を挑むが敗れ、能登国に逃亡した。
永正2年(1505年)4月4日、能登春木の斎藤館で病死した。法名は大憧宗建。余六、地蔵院という2人の男児がいたようである。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「朝倉景総」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.