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朝倉南陵(あさくら なんりょう)は、江戸時代後期の徳山藩の御用絵師で、朝倉家・四代目当主。 五代目当主が三男の、朝倉震陵である。 徳山藩時代にお抱え絵師として活躍した者が、朝倉家の人々だった。中でも四代の南陵は「花鳥・人物・山水」に多くの優れた作品を残した。 == 初代から三代について == 朝倉家初代の繁経(しげつね)は、源氏の流れをくむと言われ、最初は「鳥野安左衛門(とうの やざえもん)」と称したが、毛利元就から安芸国朝倉庄を与えられ、朝倉姓を名乗り始めた。しかし二代・友信(とものぶ)のときに故あって家柄断絶となる。以来、姓を改めて「桜井(さくらい)」と称したが、友信の子・友明(ともあき、朝倉等泉)の代で家の再興が許され、三代・友明から再び御用絵師として召し抱えられた。 しかし、友明は、31歳の若さで亡くなってしまう。そこで親族は、徳山藩浪人・阿武六左衛門春俊(あんの ろくざえもん はるとし)の子・光世(みつよ)を朝倉家に迎えた。 この光世こそが、のちの南陵であり、南陵は12歳で朝倉家の家督を継いだ。朝倉氏四代・南陵の誕生である。(朝倉家文書,周南風土記3章より) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朝倉南陵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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