|
朝倉 外茂鉄(あさくら ともてつ、文久3年1月16日〔『人事興信録』〕(1863年3月5日) - 昭和2年(1927年)6月14日〔衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年〕)は、日本の衆議院議員、弁護士。 ==経歴== 加賀国金沢出身。石川県専門学校、東京英和学校を経て、1885年(明治18年)に東京大学法学部選科に入学した〔『立身致富信用公録』p.18-22〕。その後本科に移り、1889年(明治22年)に帝国大学法科大学英法科(東京大学から改称)を卒業した〔。渋沢栄一の知遇を得て第一銀行法律顧問となり、さらに浅野総一郎の法律顧問も務めた〔。また東京法学院、東京専門学校、東京商業学校、専修学校、日本法律学校などの講師に就任した〔。1890年(明治23年)に弁護士となり、1896年(明治29年)には日本弁護士協会の結成に参加した〔。 同年、東京市会議員に当選し、1898年(明治31年)には同参事会員に選ばれ、さらに高級助役に就任した〔。1900年(明治33年)に起きた東京市参事会収賄事件では、収賄罪に問われたが、無罪判決が言い渡された〔奥平昌洪『日本弁護士史』、有斐閣書房、1914年、pp.833-849〕。 1901年(明治34年)、言文一致会の会長に就任し、雑誌『新文』『新紀元』の発行にあたった〔。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1905年(明治38年)より仁川で農業・製塩業を営み、1913年(大正2年)からは京城府で弁護士として活動した〔『京城繁昌記』pp.523-524〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朝倉外茂鉄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|