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朝倉敏景 : ウィキペディア日本語版
朝倉孝景 (7代当主)[あさくらたかしけい]

朝倉 孝景(あさくら たかかげ)は、室町時代中期の武将朝倉氏の7代目当主。当初は祖父も名乗った教景(のりかげ)を名乗り、次いで敏景(としかげ)→教景孝景の順で改名している。よって同名の曾孫と区別するために代表的な名乗りの1つである「朝倉敏景」(あさくら としかげ)と表記する事がある。また、法名から「英林孝景(えいりんたかかげ)」と呼ばれることも多い。以下、本項においては原則「孝景」で統一する。
== 生涯 ==

=== 斯波氏の有力家臣 ===
朝倉氏の先祖は日下部氏嫡流を称する但馬の古代武士団であり、当時は越前福井県)の豪族であったが、南北朝時代を経て越前守護斯波氏の重臣となった。父・家景は早くに亡くなったため、祖父の朝倉教景の補佐を受けた。
主君にあたる越前守護斯波義敏より偏諱(「敏」の字)を受けて敏景(としかげ)と改名するが、長禄2年(1458年)に始まった義敏と越前守護代甲斐常治の合戦(長禄合戦)は守護代側に与し、その主力として活躍する(「敏」の字を棄てて「教景」に名を戻したのもこの頃と思われる)。長禄3年(1459年8月11日、足羽郡和田荘での合戦で守護側の堀江利真(孝景の義兄)・朝倉将景(孝景の叔父であり、舅)らを敗死させ、守護代方を勝利に導くとともに、その地位を高める。また、和田での合戦の翌12日、甲斐常治が京で亡くなったため、相対的に孝景の影響力が強まった。
長禄合戦の最中、合戦を引き起こした斯波義敏が8代将軍足利義政の忌諱に触れて周防に没落し、その子息松王丸(後の斯波義寛)がわずか3歳で守護となっていたものの、寛正2年(1461年8月2日、足利庶流であり、堀越公方足利政知の執事でもある渋川義鏡の子息斯波義廉が斯波氏家督となる〔福井県、P599 - P606、松原、P41 - P47、水藤、P5 - P6。〕。
孝景は山名宗全と組んでこの廃嫡を仕組んだと言われているが、長禄4年(1460年)に孝景は甲斐常治の嫡子である甲斐敏光と共に遠江今川範将が起こした一揆鎮圧の為に出陣しており、関東にも出兵、寛正2年10月の義廉と義政の対面に同席するまで京都に戻っていない為、否定説もある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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