翻訳と辞書
Words near each other
・ 朝倉彫塑館
・ 朝倉愛王丸
・ 朝倉慶
・ 朝倉摂
・ 朝倉政元
・ 朝倉敏夫
・ 朝倉敏夫 (人類学者)
・ 朝倉敏景
・ 朝倉敏景十七ヶ条
・ 朝倉敏景十七箇条
朝倉教景
・ 朝倉教景 (宗滴の兄)
・ 朝倉教景 (曖昧さ回避)
・ 朝倉文夫
・ 朝倉文市
・ 朝倉景みつ
・ 朝倉景健
・ 朝倉景冬
・ 朝倉景嘉
・ 朝倉景垙


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

朝倉教景 : ウィキペディア日本語版
朝倉教景[あさくら のりかげ]

朝倉 教景(あさくら のりかげ)は室町時代中期の武将である。朝倉氏5代目当主。
== 生涯 ==
教景は越前の守護である斯波氏被官の立場にありながら、室町幕府の命により度々関東に出兵していた。第4代鎌倉公方である足利持氏永享の乱を引き起こすと、永享10年(1438年)8月、駿河守護今川範忠甲斐守護武田信重信濃守護小笠原政康らと共に出兵し、この乱を収めている。さらに結城氏朝持朝父子が持氏の遺児春王丸安王丸を擁して結城合戦を引き起こすと、再び関東に出兵した。この結城合戦の際、教景は春王丸・安王丸を生け捕りにする戦功を立てている〔『朝倉義景』吉川弘文館。4頁。〕。
この戦功により、嘉吉元年(1441年)に結城合戦が収まると教景は6代将軍足利義教から「教」の偏諱を賜り、「教景」と名乗るようになったという(『朝倉始末記』)。また、『朝倉家記』によれば、この時一緒に「美作守」を拝したとされる(「将軍御感悦有て御諱字を被下、拝美作守依教景と名乗る」)。
早くして亡くなった嫡子・家景に代わり、嫡孫の孝景(英林孝景)を補佐した。寛正4年(1463年)死去、享年84。
菩提寺である心月寺福井県福井市)は、孝景による創建である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「朝倉教景」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.