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朝倉景綱 : ウィキペディア日本語版
朝倉景綱[あさくら かげつな]
朝倉 景綱(あさくら かげつな、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将朝倉氏の家臣、のち織田氏の家臣。織田城主として織田庄(織田氏発祥の地)を領していることから苗字を織田とする。七郎。官途名兵庫助
== 概要 ==
朝倉氏の一族であるが、明確な系譜は不明である〔『朝倉始末記』では朝倉義景の従兄弟とするが誤り。〕。官途名「兵庫助(介)」を名乗る朝倉一族は、文明年間の「兵庫助景亮」、享禄天文年間の「兵庫介景良」がおり、景綱はこれらに連なる人物と考えられている。この兵庫助の家系は織田庄の本所方を支配しており、壬生本『朝倉家譜』〔朝倉義景の時代である永禄12年(1569年)頃に成立した系図。〕の記述から越前朝倉氏の初代である朝倉広景の子中野愚谷の末裔ではないかといわれている。
『朝倉始末記』によれば、永禄13年(1570年)4月に織田信長が越前を攻めた際は、景綱は500の軍勢で河野口を守備したとされる。また、天正元年(1573年)8月の刀禰坂の戦いでは、木ノ芽峠で敗兵をまとめ一合戦しようとする義景の命令を無視して織田城に退却した。
景綱は、そのまま織田の軍門に降り、朝倉氏滅亡後も引き続き織田城を守ったが、天正2年(1574年)に越前一向一揆が勃発すると、同年4月、本願寺の七里頼周が率いる大規模な一向一揆勢に城を攻められる。織田城に篭城したが多勢に無勢であった為に、景綱は織田城の兵を見捨てて、妻子のみを引き連れ海路から敦賀郡へ落ち延びた。その後の消息は不明。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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