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朝吹英二 : ウィキペディア日本語版
朝吹英二[あさぶき えいじ]

朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日1849年3月12日) - 大正7年(1918年1月31日)は、日本実業家。幼名は萬吉、鐵之助〔耶馬溪 - 福澤先生と環境保全・朝吹英二生家跡 三田評論(2009年5月)、2015年12月26日閲覧。〕。族籍は大分県平民『人事興信録 第4版』 人事興信所、1915年、あ60頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2015年12月26日閲覧。〕
三越社長、帝国生命保険社長を務めた朝吹常吉は息子。フランス文学者朝吹三吉翻訳家朝吹登水子は孫であり(ともに常吉の子)、フランス文学者、詩人朝吹亮二は曾孫。弟・野依範治の曾孫が2001年ノーベル化学賞を受賞した野依良治である。中上川彦次郎は義兄にあたる〔朝吹英二:業績知って 顕彰会が紙芝居でアピール 毎日(毎日新聞)、2011年9月15日〕。2011年度、第144回芥川賞受賞者の作家朝吹真理子は玄孫である〔。
== 生涯 ==
豊前国下毛郡宮園村(現在の大分県中津市耶馬溪町大字宮園)の大庄屋・朝吹泰蔵の次男として生まれた〔日本工業倶楽部会員追悼録, 1925〕。朝吹家は寛永年間に苗字帯刀を許可され、兄・謙三まで15代続く大庄屋であった〔。
日田の咸宜園や中津の渡邊塾・白石塾に学ぶ。尊皇攘夷思想に染まり、維新後の明治3年(1870年)、開明派の福澤諭吉暗殺を企てるが、転向し福澤とその甥 中上川彦次郎の庇護を受け、彦次郎の妹・澄(スミ)と結婚する。1872年、慶應義塾出版局の創設に際してその主任に就任した〔。慶應義塾に学び、明治11年(1878年)、三菱商会に入社。明治13年(1880年)、貿易商会に入って取締役となる。
荘田平五郎に招かれて郵船会社に入ったが、間もなく去り、横浜で一大貿易商会を開き、生糸輸出業に従ったが、たちまち大失敗して、損害数百万円の巨額に達した〔『大分県人士録』 大分県人士録発行所、1914年、48 - 51頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2015年12月26日閲覧。〕。大に奮闘して、負債のすべてを償却した〔『大分県人士録』 大分県人士録発行所、1914年、48 - 51頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2015年12月26日閲覧。〕。大隈重信に近い政商となり、義兄・彦次郎の三井財閥に転じて三井呉服店理事となり〔、明治25年(1892年)に鐘ヶ淵紡績専務、明治27年(1894年)に三井工業部専務理事に就任。
明治34年(1901年)、中上川が死去すると、益田孝により中上川の工業化路線は一旦は止まったが、それでも明治35年(1902年)に三井管理部専務理事に就任し、王子製紙会社では役員を務めて会長となり、また、芝浦製作所堺セルロイドなど王子と共に業績不振とされたこれら企業の建て直しを担当することとなった〔『慶應の人脈力』(国貞文隆朝日新書、2010年6月30日) P214〕。このように三井系諸会社の重職を歴任し、「三井の四天王」の一人と言われた。
中上川の後任の最有力候補であり、かつ慶應閥の筆頭とも目されていた朝吹だったが、上述のように、後見の中上川の死去にともない、益田が三井財閥の実権の座を握ることとなり、明治40年(1907年)には、益田が引退に際して團琢磨を推挙したため、退任を余儀なくされることとなった。1912年1月、三井家を勇退する〔。大正7年、病のため芝高輪の自宅にて死去〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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