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元津事件(もとつじけん)とは、1974年9月8日から同年9月9日にかけて、兵庫県朝来郡朝来町(現在の朝来市)岩津(通称元津)の路上で部落解放同盟員の集団が日本共産党の幹部たちを監禁し、暴行・脅迫を加えた事件。朝来事件とも呼ばれる。 == 経緯 == === 元津事件 === 兵庫県南但馬地方(養父郡、朝来郡)には22箇所(人口約6000人)の被差別部落があったが、1973年7月、部落解放同盟南但馬支部連絡協議会(略称「南但支連協」)が結成され、各部落に部落解放同盟の支部が置かれ、さらに1973年10月、南但支連協青年部が発足した〔部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例』p.295〕。1973年10月28日、部落解放同盟兵庫県連合会沢支部長のMが部落解放同盟南但馬青年行動隊を結成し、隊長となった〔兵庫人権問題研究所編「今、あらためて八鹿髙校事件の真実を世に問う : 一般社団法人兵庫人権問題研究所開所40周年記念 : 「八鹿高校事件」40周年」(兵庫人権問題研究所, 2014)pp.170-171〕。 1974年1月頃、兵庫県職員が子息に送った手紙の内容が部落差別的であると糾弾され、1974年1月下旬頃、この事件に対する糾弾闘争本部が設置された〔。その闘争委員会の委員長が、のちに八鹿高校事件の主犯となったMであった〔。これ以来、同地方では差別事件の摘発やそれを梃子にした行政闘争などが活発化した。 部落解放同盟の肝煎りによる部落解放研究会(解放研)が朝来中学校・和田山中学校・和田山商業高等学校(現・兵庫県立和田山高等学校)などに置かれる中、日本共産党員の橋本哲朗(兵庫県教職員組合(兵教組)朝来支部長。後、朝来町長)は #確認・糾弾会は部落解放同盟による思想統制を招くもので許されない。 #確認・糾弾会は教師の人格の尊厳を侵す方法で行われている。 との理由で解放研の設置に反対し、部落解放同盟の確認会等に出席しないよう教員たちに呼びかけ、部落解放同盟に批判的な日本共産党系の部落問題研究者を講演に呼ぶなどの活動を行った〔。 1974年の7月から8月にかけて、朝来中学校で部落解放同盟員や解放研生徒による、同校教諭への確認・糾弾会が開かれた〔部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例』p.304〕。これに対し橋本は、八鹿高校教諭で日本共産党員の片山正敏(高等学校教職員組合但馬支部支部長)や日本共産党町議会議員の支援のもとに"部落解放運動の統一と刷新をはかる日高有志連合"(国民融合全国会議の前身)名義によるビラを作成し、兵教組朝来支部組合員や朝来郡内の一般世帯に配布した〔。ビラの内容は、朝来中学校の確認・糾弾会について部落解放同盟を批判するもので、「この世の生き地獄『教師をリンチする朝来中学校内確認会』県連行動隊直轄下におかれた朝来中学校の実態は…」「くりひろげられる地獄絵図」「教師を恐怖のどん底におとしいれ…」などの文言が使用されていた〔部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例』p.295〕。 部落解放同盟はこのような共産党や橋本らの行動に反発を強め、ビラの配布や新聞折込を妨害し、「橋本哲朗糾弾闘争」を開始した。ただし、ビラ配布は糾弾の単なるきっかけに過ぎず、部落解放同盟がビラ配布以前から橋本糾弾を考えていたことは大阪高裁でも認定されている〔部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例』p.306〕。 1974年9月9日、部落解放同盟員40人~50人が〔部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例』p.259〕兵庫県朝来郡朝来町の路上で橋本哲朗など部落解放同盟に批判的な10名を取り囲み、約10時間にわたり「割り木で殴り殺したろか」〔部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例』p.258〕「大根みたいに切り刻んでやろか」〔「差別者、糾弾する」「ビラ撒いたやろ」「1日で済む思ったら大間違いだ。1週間でも10日でもやってやる」などと怒号し、なおかつ左足を踏みつける・足を蹴る・小突くなどの暴力をふるい〔、同人らを不法に監禁した〔部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例』p.213〕。事件後も橋本には耳鳴りや難聴などの障害が残った〔部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例』p.296〕。この事件は第一次朝来事件とも呼ばれる〔兵庫民報Web版: みなさん、ぜひご参加ください「八鹿高校事件から40年、養父不当捜査事件2年―いま、あらためて真実を問うつどい」 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「元津事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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