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朝比奈 泰能(あさひな やすよし)は、戦国時代の武将。今川家の重臣。父は朝比奈泰煕。子に泰朝。掛川城主〔。 == 生涯 == 永正9年(1512年)、父の死去により家督を継ぐが、若年のため叔父・朝比奈泰以の後見を受ける。 泰能は氏親、氏輝、義元の今川氏3代に渡って仕えた宿老であり、大永6年(1526年)に制定された「今川仮名目録」には、三浦氏満と並ぶ重臣として記され、今川氏における外交文書などでは、太原雪斎とともに名を連ねている。また寿桂尼の兄である中御門宣秀の娘を娶ることで主君・今川氏の姻戚となった〔。 遠江国の要衝掛川城を居城として今川義元の西方(遠江・三河)への戦略を常に助ける働きを示すが、その一環として分家の泰長・元智の兄弟などに浜名湖西岸の宇津山城を託している。自らも天文17年(1548年)の小豆坂の戦いでは、総大将の太原雪斎を補佐する副将として出陣した。 天文18年(1549年)には、岡崎城城主・松平広忠が横死すると、岡崎城接収の任にも当たっている。 弘治3年(1557年)8月30日に病死〔。なお、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで尾張鷲津砦を攻撃した将の名が「朝比奈泰能」となっている史料もあるが、実際は後を継いだ嫡子・泰朝のことで、親子を誤ったものと見られているが、一説に雪斎に続く重臣の死に今川軍が動揺する事を恐れて3年間、喪を伏していた可能性がある〔川口素生『戦国軍師人名事典』P81〕。 雪斎に続く補佐役であった泰能の死は義元にとって痛手であった。義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れて討ち死にするのはこの3年後である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朝比奈泰能」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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