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朝比奈泰能 : ウィキペディア日本語版
朝比奈泰能[あさひな やすよし]

朝比奈 泰能(あさひな やすよし)は、戦国時代武将今川家重臣。父は朝比奈泰煕。子に泰朝掛川城主〔。
== 生涯 ==
永正9年(1512年)、父の死去により家督を継ぐが、若年のため叔父・朝比奈泰以の後見を受ける。
泰能は氏親氏輝義元の今川氏3代に渡って仕えた宿老であり、大永6年(1526年)に制定された「今川仮名目録」には、三浦氏満と並ぶ重臣として記され、今川氏における外交文書などでは、太原雪斎とともに名を連ねている。また寿桂尼の兄である中御門宣秀の娘を娶ることで主君・今川氏の姻戚となった〔。
遠江国の要衝掛川城を居城として今川義元の西方(遠江三河)への戦略を常に助ける働きを示すが、その一環として分家の泰長元智の兄弟などに浜名湖西岸の宇津山城を託している。自らも天文17年(1548年)の小豆坂の戦いでは、総大将の太原雪斎を補佐する副将として出陣した。
天文18年(1549年)には、岡崎城城主・松平広忠横死すると、岡崎城接収の任にも当たっている。
弘治3年(1557年)8月30日に病死〔。なお、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い尾張鷲津砦を攻撃した将の名が「朝比奈泰能」となっている史料もあるが、実際は後を継いだ嫡子・泰朝のことで、親子を誤ったものと見られているが、一説に雪斎に続く重臣の死に今川軍が動揺する事を恐れて3年間、喪を伏していた可能性がある〔川口素生『戦国軍師人名事典』P81〕。
雪斎に続く補佐役であった泰能の死は義元にとって痛手であった。義元が桶狭間の戦い織田信長に敗れて討ち死にするのはこの3年後である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「朝比奈泰能」の詳細全文を読む



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