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朝田理論(あさだりろん)とは、部落解放同盟中央本部の第2代中央執行委員であった朝田善之助が確立させた部落解放理論。朝田テーゼ、朝田ドクトリンとも呼ばれる。 1956年に部落解放同盟第11回大会で提出された「差別に対する命題」すなわち「生活上における一切の不利な条件…日々生起する一切の問題を…差別として評価しなければならない」は、その非科学性から多数の代議員の反対を受けて保留になったが〔中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.207〕、この発想は、地方自治体の行政を「差別行政」であるとして攻撃・糾弾し、同和対策事業予算を取れるだけ取るのに便利であったため〔、1961年の第16回大会で打ち出された「差別の本質」などで復活し、1960年代前半、日本共産党系列の大衆運動の動員に収斂しようとする当時の解放同盟中央の運動論に対抗する形で再三にわたり意見書を提出する中で徐々に形を整えていった。 当初、朝田は一時的にマルクス・レーニン主義の理論を吸収しようと努め、日本共産党を心情的に支持する姿勢を示していた〔中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.292〕。このため、部落解放同盟内部の共産党員は早くから朝田理論の誤りを指摘しつつも朝田と共存していた〔。 ところが1960年代半ば、共産党系幹部と関係が悪化した社会党系幹部は新たな運動論のよりどころとして朝田に接近、その理論的主張は一転して解放同盟の主流的立場となった。 それと同時に朝田は完全な反共主義に転じ、共産党系活動家を部落解放同盟から追放。以後、朝田理論は共産党系活動家から公然と批判を受けるようになり、1969年発刊の共産党農民漁民部編『今日の部落問題』では、朝田の主張が「社会民主主義者による解放同盟内の日和見主義理論」の一つとして紹介されるとともに、排外主義的傾向が強いと全面的に批判された。 1965年、共産党系活動家の岡映は汐文社より『入門部落解放』を上梓。岡は朝田理論を、「うけとめ方によっては、きわめて有害のものであって、部落の孤立化を深めることになる」として批判した。 1969年、矢田事件で決定的となった解放同盟と共産党との対立、双方からの非難の応酬の中で「三つの命題」として整序され、1971年の部落解放同盟全国大会で定式化された。 == 内容 == ===前提=== *「日常生起する問題で、部落にとって、部落民にとって不利益なことは一切差別である」(部落解放同盟第12回大会) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朝田理論」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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