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朝貢(ちょうこう)は、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜を与えるという形式を持って成立する。なお、周辺国が貢物を捧げることを進貢(しんこう)、皇帝がその貢物を受け入れることを入貢(にゅうこう)という。 朝貢には実質的な臣属という意味はなく、その点で冊封とは区別される。朝貢に対する恩賜が少なくて不満を抱いた進貢側が、帰り道で住民に略奪行為を行うこともあった。 朝貢の「朝」は、陰暦の毎月16日の早朝に行われる皇帝との朝礼に、手土産として朝礼に参加することからが由来とされる 〔「皇帝たちの中国」岡田英弘 著 ISBN-10:4-562-03148-4〕。 == 概要 == 王化思想を基調として周辺諸国の夷狄たちが、「中国の徳を慕って」朝貢を行い、これに対して回賜を与えるという形式である。朝貢を行う国は、相手国に対して貢物を献上し、朝貢を受けた国は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜する。経済的に見ると、朝貢は受ける側にとって非常に不利な貿易形態である。 四夷から朝貢を受けることは皇帝の徳を示すことと見なされ、内外に向けて政権の正統性を示すことができるので、朝貢には莫大な費用がかかるにもかかわらず歴代中国政権は朝貢を歓迎してきた。 これには周辺異民族と敵対して多額の防衛費や軍事費を負担するよりも、朝貢を受けて回賜を与えたほうが安上がりであるという現実もあった。仮に周辺の異民族を討伐して支配下に置いたとしても、生産性の低い地域に支配領域を広げるだけであり、税収よりも軍事支配のためのコストのほうが上回る。つまり朝貢は中国政権にとって経済的に優れた安全保障システムでもあった。 朝貢国にとっても、自分が正式な王であることを認められる上に、貢物に対して数倍の価値の回賜が与えられるのが通常であったため大きい利益があった。また朝貢に来る使節の人員に対しても多額の褒賞金が与えられたために、経済不振になった中国王朝では費用削減のために朝貢の回数を制限することもあった。 冊封により中国王朝の臣下となった冊封国は原則的に毎年の朝貢の義務があるが、冊封を受けていない国でも朝貢自体は行うことが出来た。例えば遣唐使を送っていた当時の日本では日本側は「中国と対等貿易を行っていた」とし、中国側は「遠国である事を鑑み、毎年の朝貢の義務を免じた」としている。 漢字文化圏に包含された冊封国からの朝貢は経済的な利益にとどまらず、書物の購入、情報の入手など、社会・文化的な利益も伴った。 しかし宋代においてこのシステムは破綻する。遼に対しては辛うじて上位にたって中華王朝としての面目を保ったものの、新興金に対しては宋王朝のほうが下位で貢物を差し出す事となった(貢物を受け取る側が貢物を超える回賜ができなかったとも言える)。 元代においては朝貢と言った形式はなかったが、明になると再び朝貢形式が採られた。鄭和の大遠征により、多数の国々からの朝貢を受けることになった。しかし回賜の経費が莫大であったことから、その後に明は朝貢制限へと方針転換する。 清代においても、ヨーロッパとは朝貢感覚で貿易を継続しようとしたが、ヨーロッパ諸国に傲慢な態度として憎まれ、結果、アヘン戦争などが勃発し、逆に中国が半植民地化する要因となった。一方、李氏朝鮮や阮朝、琉球王国からは従来通り朝貢を受けていたが、琉球処分及び清仏戦争や日清戦争における清の敗北により、朝貢は終了した。これ以降、朝貢という形式での対外関係は消滅した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朝貢」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tribute 」があります。 スポンサード リンク
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