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朝赤龍 太郎(あさせきりゅう たろう、1981年8月7日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で高砂部屋(入門時は若松部屋)所属の現役大相撲力士。本名はバダルチーン・ダシニャム(モンゴル語キリル文字表記:、ラテン文字転写:''Badarchiin Dashnyam'')、愛称はダシ。四股名と部屋の兄弟子朝青龍の本名にちなんで赤ドルジとも呼ばれる。身長183cm、体重150kg、血液型B型、趣味は映画観賞。得意手は左四つ、寄り、投げ。最高位は、西関脇(2007年9月場所、2007年11月場所)。''、ラテン文字転写:''Badarchiin Dashnyam'')、愛称はダシ。四股名と部屋の兄弟子朝青龍の本名にちなんで赤ドルジとも呼ばれる。身長183cm、体重150kg、血液型B型、趣味は映画観賞。得意手は左四つ、寄り、投げ。最高位は、西関脇(2007年9月場所、2007年11月場所)。 == 来歴 == ブフ(モンゴル相撲)のナチン(小結)の二男。6〜12歳までナーダムの競馬大会に出場し、子供には難しいといわれる調教を会得した。明徳義塾高等学校に朝青龍〔明徳義塾の関係者の判断で朝青龍がホームシックにならないように同郷のダシニャムが帯同したという。〕とともに来日し、活躍した。高校卒業後、大学進学か相撲部屋に入門か迷ったが朝青龍も入門していたため、高校在学中の2000年1月に朝青龍と同じ若松部屋(当時)に入門し初土俵を踏んだ。 5月場所には早くも全勝で序二段優勝、11月には早くも新幕下。兄弟子の朝青龍ほどの早さではないが、それでも順調に番付を駆け上がり、2002年7月場所で十両へ昇進した。初土俵から所要15場所での新十両で、年6場所制以降では史上10位タイのスピード出世であった。この時の新十両には春日王がいる。新十両の場所では6勝9敗と躓いたが幕下への陥落は免れた。翌9月場所からは3場所連続で2ケタ勝利を挙げ、特に西十両筆頭で迎えた2003年1月場所では11勝4敗の成績をあげ、武雄山との決定戦を制して十両優勝。なお、この場所の幕内では大関朝青龍が優勝を果たしており、高砂部屋勢が2つの優勝をさらった形になった。結局朝赤龍は4場所で十両を通過した。 2003年3月場所に豪風と共に新入幕。入幕後しばらくはパッとしなかったが、2004年3月場所では幕内下位ながら好調で、横綱朝青龍、大関魁皇、大関千代大海と共に初日から11連勝。12日目には魁皇を破って12連勝としたが、翌日千代大海との全勝対決は、突き合い押し合いの大激闘の末、押し出しで敗れた。それでも千秋楽まで優勝争いを展開し(優勝は全勝の朝青龍)、結局13勝2敗の優勝次点で終えて殊勲賞と技能賞を同時に受賞した。 その後は下位で大勝ちすることもあるが上位にはなかなか通じずに大敗するといった状況が続き、更には右膝を痛めてしばらく低迷した。それでも次第に地力をつけて2006年3月・5月は10勝5敗と連続2桁勝利。特に5月場所は上位で初めて勝ち越したのみならず4大関(魁皇、栃東、千代大海、琴欧州)を破る健闘を見せて、敢闘賞を受賞。翌場所には稀勢の里と同時に新三役(小結)を果たした。新三役の場所では初日に綱取りを目指していた白鵬を破ったが、翌日の魁皇との取組で左足の靭帯を痛め、翌日から休場してしまった。 2007年5月場所では上位との対戦はなかったが、12勝3敗で2度目の優勝次点の成績を挙げ、自身2度目の技能賞を受賞した。翌7月場所は前頭筆頭で8勝7敗と勝ち越し、9月場所に関脇昇進を果たした。新関脇の場所は8勝7敗で三役で初めて勝ち越した。その後は、2008年までは上位での土俵が多く三役も務めたが、2009年以降は前頭中位以下に低迷している。2012年5月場所では東前頭14枚目の地位で6勝9敗と負け越し、十両に陥落した。東十両筆頭で迎えた7月場所では9勝6敗と3場所ぶりに勝ち越した。2013年1月場所を途中休場〔場所直前の稽古で右足首の軟骨を傷め、初日は不戦敗で二日目から休場。五日目から再出場。〕したことで翌3月場所は西十両11枚目まで番付を後退させ「幕下に落ちれば高砂部屋が135年ぶりに関取消滅」〔大相撲初場所:朝赤龍休場で高砂部屋危機 関取消滅か 毎日新聞 2013年01月13日 21時19分(最終更新 01月13日 21時51分)〕という危機に瀕していたが、この場所は10日目に勝ち越しを決めるなど好調であり、終盤失速するも10勝5敗の成績で締め括った。2014年3月場所は西十両3枚目の地位を与えられたが13日目に負け越しを確定させ、その後千秋楽まで2連勝して7勝8敗と食い下がるも再入幕を果たせず悲願(後述)は持ち越しとなった。2014年11月場所は中日まで3勝5敗と振るわなかったものの後半は大きく追い上げ、結果的に9勝6敗の勝ち越しに与った。 かつて第68代横綱・朝青龍の土俵入りでは、ほぼ毎場所太刀持ちあるいは露払いを務めていた。また、2010年10月3日に開催された朝青龍の引退相撲での横綱最後の土俵入りでも露払いを担当した(太刀持ちは同じモンゴル出身で大関の日馬富士が務めた)。同部屋である朝青龍の強烈な存在感に比べるとやや陰に隠れている趣きがあるが、温和な性格で多くの人に好かれている。 2012年2月にモンゴル人女性と入籍して2013年10月25日にはすでに第2子が誕生したが、2013年以降十両で低迷しているため入籍から3年近く経過した現在に至るまで挙式は自粛している。本人は「幕内に復帰したら挙げたいけど、まずは親方と相談してから。」という意向を示している。〔『相撲』2013年12月号64頁〕その後、2015年9月場所で再入幕を果たし、その後十両に再び陥落したものの、2016年2月14日に挙式を行った。〔呼出し 邦夫さんはTwitterを使っています: "今日は朝赤龍関の結婚披露宴。 https://t.co/H4q5SJY6ZZ" 2016年02月14日閲覧〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朝赤龍太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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