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朝野新聞 : ウィキペディア日本語版
朝野新聞[ちょうやしんぶん]

朝野新聞(ちょうやしんぶん)は、1874年(明治7年)9月24日から1893年(明治26年)11月19日まで東京で発行された、民権派の政論新聞。前期には成島柳北社長と末広鉄腸主筆が論陣を張った。
== 歴史 ==
1872年(明治5年)に旧松江藩と旧明石藩が創刊した、『公文通誌』という、主に政府の布告を紹介する小規模な新聞があった。発行人はそれぞれの旧藩士鵜飼渚と乙部鼎で、乙部が社主を勤めた。
1874年秋、乙部社主は成島柳北を社長兼主筆に迎え、名を『朝野新聞』と変え、政論新聞に脱皮した。経営は乙部、編集は成島である。『朝野』とは、『1. 朝廷と民間、2. 全国。世間。天下』である(広辞苑)。
東京曙新聞末広鉄腸が、1875年6月公布の讒謗律新聞紙条例を非難して処罰された。それを柳北が紙上で讃え、8月に自宅禁錮5日に処された。その10月、曙新聞を飛び出した末広鉄腸が高橋基一に代わって編集長となり、以降、柳北の洒脱な諷刺『雑録』と鉄腸の痛烈な『論説』とで人気を呼び、横浜毎日新聞郵便報知新聞東京日日新聞、東京曙新聞ときそった。社屋は尾張町二丁目(現、東京都千代田区銀座六丁目)にあった。
1875年(明治8年)12月、讒謗律新聞紙条例の制定者、井上毅尾崎三良を紙上で茶化し、翌年2月、官吏侮辱罪で、柳北は禁獄4ヶ月罰金100円の、鉄腸は8ヶ月と150円の、罰を受けた。出獄後、柳北は『成島柳北ごく内ばなし』を〔成島柳北と朝野新聞 〕、鉄腸は『末広重恭転獄新話』を連載した。1876年6月末、浅草観音堂で各社が共催した『新聞供養大施餓鬼』では、柳北が『新聞紙を祭る文』を読み上げ紙上に掲載し〔岩波書店、『日本近代思想大系11』の p.342〕、政府の言論弾圧をからかった。
記者の処罰はその後も続いた。この頃が最盛期で2万部近くを売り、1876年11月、社屋を銀座尾張町の四つ角(現在の和光の所)に移転している(この社屋の実寸模型が、江戸東京博物館にある)。だが、政論に鋭い反面、事件記事は劣り、1877年の西南戦争では誤報を出した。
1878年(明治11年)の大久保利通暗殺事件の時は、犯人側の『斬奸状』をただ一紙掲載し、5日間の発行停止になった。
1881年、明治十四年の政変後、憲法制定と国会開設が予告されると、自由党立憲改進党とが相次いで結成され、各新聞は支持政党を鮮明にしたが、朝野では、乙部社主・成島社長らが立憲改進党に、末広編集長・高橋基一らが自由党に入党した。
1884年11月に成島社長が没し、末広編集長が後を支えたものの、衰退に向かった。犬養毅尾崎行雄・吉田熹六・町田忠治らが入社して、立憲改進党色を濃くし、報道が偏ることもあった。1888年、大隈重信外相の不平等条約改正案に賛成して、世論に背いた。
1889年(明治22年)、大同団結派の末広鉄腸が退社した。
経営が苦しくなり、1890年11月、社主の乙部鼎は、朝野新聞社を大阪毎日新聞社長渡辺治に売却した。犬養・尾崎・町田ら19人は退社した。波多野承五郎らが入社して、渡辺治が社長となり、新陣容から、薩摩系新聞と言われた。
翌春、玄洋社の川村惇らが入社し、波多野が社長兼主筆となり、大成会国民協会の機関誌になった。
1892年(明治25年)、北川礼弼社長・川村惇主筆の布陣になったが、翌年11月廃刊した。
在籍した記者に次などがいた。( )の中は、西暦の在籍期間などである。
沢田直温(1874 - 1885)/ 高橋基一(1874 - 1883)/ 堀口昇(1881 - 1890)/ 末広鉄腸(1875 - 1889)/ 横瀬文彦(1877 - 1879)/ 小松原英太郎(1878 - 1879)/ 浅野乾(1879 - 1883)/ 草間時福(1879 - 1881)/ 馬場辰猪(客員記者、1882 - 1886)/ 城多虎雄(客員記者、1882)/ 前田健次郎(香雪)(1884 - / 犬養毅(1885 - 1890)/ 尾崎行雄(1887 - 1890)/ 小川芋銭(客員、1887 - 1893)/ 中村仙太郎(1888 - 1890)/ 中村弼(1888 - 1890)/ 久松吉典(1888 - 1890)/ 吉田熹六(1888 - 1890)/ 町田忠治(1889 - 1890)/ 金子定敬(1889 - 1890)/ 永井碌(1889 -1890)/ 波野承五郎(1890 - 1893)/ 北川礼弼(1890 - 1893)/ 西師意(1890 - 1893)/ 荒井直造(1890 - 1893)/ 川村惇(1891 - 1893)/ 菊池武徳(1891 - 1893)
1893年12月23日から1896年3月31日までと、1900年7月15日から1901年4月20日までと、1907年7月3日から1911年7月12日までと、三回再刊された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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