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朝野鹿取 : ウィキペディア日本語版
朝野鹿取[あさの の かとり]
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朝野 鹿取(あさの の かとり、宝亀5年(774年) - 承和10年6月11日843年7月11日)は、平安時代初期の公卿氏姓は忍海原のち朝野宿禰、朝野朝臣正六位上・忍海原鷹取の子。官位従三位参議勲等は勲六等。
== 経歴 ==
大和国出身。立身するために、叔父の忍海原道長の養子となる〔『日本後紀』弘仁3年6月15日条〕。延暦10年(791年忍海原魚養の言上により、一族とともに忍海原連から朝野宿禰に改姓する。延暦11年(792年)自ら申請して父の戸籍に戻るが、この際に父の鷹取も朝野宿禰姓を追賜されている〔。若くして大学寮で学び『史記』『漢書』を修得する。漢音に通じたことから音生として試験を受ける〔『続日本後紀』承和10年6月11日条〕。のち対策に及第して文章生に補せられる。
大学で学んだ知識を評価されて、延暦21年(802年遣唐使の准録事として入し翌年帰国〔。のち大宰大典式部少録左大史左近衛将監を歴任する傍ら、『日本後紀』『内裏式』の編纂に携わり、さらに皇太子・神野親王(のち嵯峨天皇)の侍講も務めた〔。
嵯峨天皇即位後の弘仁元年(810年蔵人に任ぜられ、翌弘仁2年(811年)それまでの侍講の功労により従五位下叙爵〔。同年左衛士佐次いで左衛門佐、弘仁5年(814年)左近衛少将と武官を歴任する一方、弘仁8年(817年)従五位上、弘仁10年(819年正五位下と嵯峨朝後半にかけて順調に昇進する。弘仁11年(820年)正月、病により辞官を願い出ると、許された上で従四位下に昇叙され〔『日本後紀』弘仁11年閏正月25日条〕、同年5月には兵部大輔として復職する。のち、中務大輔民部大輔を経て、弘仁14年(823年)に蔵人頭に任ぜられる。
同年4月の嵯峨天皇譲位淳和天皇即位を通じて、蔵人頭を辞任して左中弁に遷任する。天長4年(827年)従四位上に叙せられるとともに大宰大弐に任ぜられる。鹿取は大弐の任を解くことを求めて上表するが許されず〔、淳和朝後半は大宰府に下向している〔『日本後紀』天長4年4月10日条〕。
仁明天皇が即位した天長10年(833年参議に昇進して公卿に列す。式部大輔・左大弁・民部卿を経て、承和7年(840年正四位下、承和9年(842年従三位に叙せられる。同年鹿取を含む一族19人が宿禰姓から朝臣姓に改姓している。
承和10年(843年)6月11日薨去享年70。最終官位は参議従三位勲六等兼越中守。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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