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木原義隆 : ウィキペディア日本語版
木原義隆[きはら よしたか]

木原 義隆(きはら よしたか、1942年7月12日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手。選手時代のポジションは投手で、投法はアンダースロー
== 来歴・人物 ==
海南高校(和歌山)では1年生の時、エース宗邦夫の控え投手として1958年夏の甲子園に出場。準々決勝に進むが柳井高に敗退し、自らの登板はなかった〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。翌1959年夏の県予選準々決勝で向陽高と対戦し、ノーヒットノーランを達成するが、決勝では南部高に0-1で惜敗〔。1960年春の選抜に出場。1回戦で関西高に延長10回サヨナラ勝ち、しかし2回戦では法政一高に延長11回0-1xでサヨナラ負け。2試合をいずれも完投している〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。同年夏の甲子園県予選は、決勝で新宮高に敗退〔。
進学した法政大学では東京六大学リーグで3度の優勝を経験。1962年春季リーグに山崎武昭龍隆行の先発陣をリリーフで支え優勝に貢献、1963年秋季リーグもチームは優勝するがあまり出番はなかった。しかし翌年は主戦投手となり活躍。1964年10月には、東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に先発として起用された。リーグ通算40試合12勝9敗、防御率1.93、133奪三振。1965年近鉄バファローズへ入団。
ルーキー・イヤーの1965年は、主に先発として34試合に投げ、8勝した。しかし、その後はやや低迷し、1967年オフに金銭トレードで大洋ホエールズへ移籍。だが、ホエールズでは登板15試合0勝1敗と不本意な結果に終わり、1969年暮れに金銭トレードで広島東洋カープへ移った。カープでは5年間で12勝17敗5セーブという成績を残し、在籍2年目の1971年には2度の完封勝利を記録している。1974年オフ、カープから戦力外通告を受け、太平洋クラブライオンズに移籍。ここでは1975年に、自身初の2桁勝利となる10勝を挙げた。しかし1976年は一転して0勝に終わり、この年を最後に引退した。
サイドスローでバランスが良く、リズミカルな投球フォーム。得意な球種はスライダー、カーブ、シュートであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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