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木島桜谷[このしま おうこく] 木島 桜谷(このしま おうこく、明治10年(1877年)3月6日 - 昭和13年(1938年)11月13日)は、明治から昭和初期にかけて活動した四条派の日本画家。本名は文治郎。字は文質。別号に龍池草堂主人、朧廬迂人。 四条派の伝統を受け継いだ技巧的な写生力と情趣ある画風で、「大正の呉春」「最後の四条派」と称された画家。 == 経歴 ==
=== 生い立ち === 京都市三条室町東入御倉町で、木島周吉(二代)の子として、一女三男兄弟の次男として生まれる〔以下伝記は、実方葉子 「画三昧への道─木島櫻谷の生涯」(泉屋(2013)、pp.74-81)に多く依っている。〕。曽祖父の木島元常は、狩野派の絵師・吉田元陳の弟子で、京都在住絵師の多くが参加した寛政期の内裏造営障壁画制作にも名を連ねている。祖父・周吉の代から内裏に高級調度を納入する「有識舎」という店を興し、父もその店を継いでいた。父は絵や和歌、茶の湯に造詣が深く、木島家には彼を慕った芸術家や知識人の来訪が絶えなかったという。その中には陶工の永樂保全や篆刻家・茶人の山本竹雲、そして岸派の絵師・岸竹堂がいた。周吉と竹堂は、岸岱のもとで共に画を学んだ仲で、木島家には竹堂の作品が少なからずあったようだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木島桜谷」の詳細全文を読む
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