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木崎原合戦 : ウィキペディア日本語版
木崎原の戦い[きざきばるのたたかい]

木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐島津義弘の間でおこなわれた合戦である。大軍(3,000人という説が有力)を擁していた伊東側が、少数の兵力(300人)しか持っていなかった島津側に敗北したことから、「九州桶狭間」とも呼ばれる。ただし実際の桶狭間の戦いとは違い、島津軍は将兵の85%以上が討死したという全滅と言うべき大損害を被っている。なお、この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、義弘の計略により撤退している。
この戦いをきっかけとして伊東氏は衰退し始め、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともなった。
なお「木崎原の戦い」とは島津側の呼び方で、伊東側では「覚頭(加久藤)合戦」と呼ばれている。
== 合戦の経過 ==

=== 発端 ===
元亀2年(1571年)6月、薩摩島津氏十五代当主・島津貴久が没すると、大隅肝付氏が島津領に侵攻し始めた。日向伊東義祐はこれを好機と見て、真幸院(現・宮崎県えびの市、同小林市、同高原町)の完全支配を目指すべく、翌年の5月にいまだ島津が治める飯野地区への大攻勢を開始する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「木崎原の戦い」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Kizaki 」があります。



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