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木曽駒ヶ岳大量遭難事故 : ウィキペディア日本語版 | 木曽駒ヶ岳大量遭難事故[きそこまがたけたいりょうそうなんじこ]
木曽駒ヶ岳大量遭難事故(きそこまがたけたいりょうそうなんじこ)とは、1913年(大正2年)8月26日から翌日にかけて襲った台風による悪天候に巻き込まれ、木曽駒ヶ岳を登山中の教員・生徒ら38人が遭難、うち11人が将棊頭山付近で死亡した山岳遭難事故である。のちに作家の新田次郎がこの事件をモデルとして小説『聖職の碑』を著し、映画化もされた。 == 事故の経緯 ==
=== 8月26日 === 遭難したのは、集団宿泊的行事で入山していた長野県上伊那郡中箕輪村の中箕輪高等小学校(現在の箕輪町立箕輪中学校)二年生25人を含む総員38人の一行であった。引率者は校長の赤羽長重と部下の征矢隆得(訓導)、清水政治(准訓導)であり、一行には同窓会員の10人も加わっていた。 計画では8月26日午前5時に出発、内ノ萱から行者岩、将棊頭山を経て濃が池へ至り、中岳の稜線を通って木曽駒ヶ岳に登頂、山頂付近で野営し、27日午後に下山・帰校の予定であった。 折悪しく出発後に動き出した台風により急速に天候が悪化し、行程に遅れが出たこともあって、頂上付近へ到達したのは午後8時という非常に遅い時間だった。この頃にはすでに暴風雨になっていたため小屋(現在の宝剣山荘)に避難するが、小屋の損傷が激しく焚き火をするための燃料もなかったため暖をとれなかった。雨が氷結したとの証言から気温は零下にまで下がっていたものと思われる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木曽駒ヶ岳大量遭難事故」の詳細全文を読む
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