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木本地蔵院 : ウィキペディア日本語版
木之本地蔵院[きのもとじぞういん]

木之本地蔵院 (きのもとじぞういん)は、滋賀県長浜市にある時宗の寺院。公式の寺号は浄信寺(じょうしんじ)であるが、一般には「木之本地蔵」「木之本地蔵院」の名で知られている。山号は長祈山(ちょうきさん)。本尊は地蔵菩薩秘仏)である。境内には秘仏本尊の写しである高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされている。眼の地蔵菩薩として信仰を集めている。
== 歴史 ==
伝承によれば、天武天皇の時代(7世紀後半)、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着し、これを祀った金光寺を難波の地に建てたのが始まりという。その後、現在の木之本に移転する経緯については2つの異なる伝承がある。
一つの伝承は奈良薬師寺の僧を開山とするものである。これによると、天武天皇4年(675年)、地蔵像をより縁深き地に安置するため聖武天皇の勅命を受け、薬師寺の祚蓮上人が北国街道を下った。休憩のため地蔵像を柳の下に降ろしたところ、そこから動かなくなったため、この地を安置場所と定め、柳本山金光善寺と号して一寺を建立した。後にこの地は、「柳の本(やなぎのもと)」と言われ、さらに「木之本(きのもと)」と言われるようになったという。今一つの伝承は、文武天皇が北陸の白山参詣の途上、木之本の地で紫の雲を見て、この地が霊地であると知り、難波の金光寺を木之本に移したとするものである。以上の草創伝承は各地に多くある霊験譚の域を出ないものであり、どこまで史実を反映したものであるかは定かでない。
その後、弘仁3年(812年)に空海が巡錫して修補し、地蔵経を書写し奉納したとの伝承もある。昌泰元年(898年)には醍醐天皇の勅旨により菅原道真が参拝し、長祈山浄信寺と改号したという。
建武2年(1335年足利尊氏は、毎年8月遣使して法会することにした。これは現在も8月に大縁日として続いている。尊氏は暦応元年(1338年)には田100石を浄信寺に寄進している。
賤ヶ岳の戦いでは当寺に豊臣秀吉の本陣がおかれた。この戦いの戦火により焼失。慶長6年(1601年豊臣秀頼の命令を受け、片桐且元が再建した。
元文4年(1739年)、寺は再び焼失した。現在の本堂は宝暦年間(1751年 - 1764年)に僧仁山の勧進により再建されたものである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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