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木村 伊兵衛(きむら いへい〔『朝日年鑑 第2巻』 : “木村伊兵衛” 1973年 朝日新聞社〕、1901年12月12日 - 1974年5月31日〔『12月12日は写真家・木村伊兵衛の誕生日です 』 2014年12月12日 FASHION HEADLINE〕)は、20世紀に活動した日本の写真家。戦前・戦後を通じて活動した日本を代表する著名な写真家の一人。 報道・宣伝写真やストリートスナップ、ポートレート、舞台写真などさまざまなジャンルにおいて数多くの傑作を残している。特に同時代を生きた写真家、土門拳とはリアリズム写真において双璧をなす。 == 来歴 == *1901年 - 東京市下谷(現在の東京都台東区)に生まれた。子供のころからおもちゃカメラを手にして写真に興味を持った。 *1920年 - 砂糖問屋の台湾台南市支店に勤務する傍ら、同市にあった遠藤写真館で営業写真の技術を習い、アマチュア写真クラブにおいて頭角を現した。 *1924年 - 内地帰還後、日暮里で写真館を開業した。 *1929年8月19日 - 霞ヶ浦にグラーフ・ツェッペリンが飛来した際、フーゴー・エッケナー船長が縦型距離計フォーディスつきのライカIAを首に提げていたのに触発されたのがライカ購入の動機になったという〔『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』p.128。〕。 *1930年 - 花王石鹸(現・花王)広告部に嘱託として入社。入社後すぐに購入したライカIAでリアルな広告写真を撮ることで注目され、その後ライカを主力に作家活動を続けた〔『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』p.128。〕。 *1932年 - 月刊写真雑誌『光画』を野島康三らと発刊し、ライカによるスナップ写真を毎号のように発表した〔『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』p.128。〕。 *1933年 - 名取洋之助、伊奈信男、原弘、岡田桑三らと「日本工房」に参加。写真報道をライカなどの小型カメラの特性を生かして切り開いた。 *12月 - ヘクトール73mmF1.9レンズを多用した写真を『光画』に発表するとともに写真展『ライカによる文芸家肖像写真展』を開き絶賛を浴びた〔『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』p.128。〕。 *1934年 -日本工房を退いた伊奈、原らと「中央工房」を設立。写真部として岡田、そして光吉夏弥、渡辺義雄らと国際報道写真協会を設置した。 *1938年 - 国家総動員法公布により『写真週報』の写真家に抜擢。内閣情報部傘下の「写真協会」へ所属した。 *1941年 - 対外宣伝プロダクション「東方社」の写真部責任者に就任した。 *1942年 - グラフ誌『FRONT』の制作・発刊に携わった。 *1943年 - 写真集『王道楽土』を出版した。 *1950年 - 日本写真家協会が設立され初代会長に就任。また写真雑誌の投稿写真コンテストの選考・論評を通じて、アマチュア写真の指導者として土門拳とともにリアリズム写真運動を推進した。 *1956年 - 「日中文化交流協会」発足と同時に常任理事に就任。以降、日中国交回復前後の中国を度々訪れ、日中友好に尽力した。 *1962年5月 - 前進座の撮影を始めた〔『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.24。〕。 *1966年 - 日本リアリズム写真集団の顧問に就任した。 *1974年 - 日暮里の自宅でその生涯を終えた。 *1975年 - 故人の功績をたたえ、新人写真家を対象とした「木村伊兵衛写真賞」(朝日新聞社主催)が創設される。以後、新人写真家の登竜門として数多くの著名写真家を輩出している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木村伊兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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