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木村 昌福(きむら まさとみ、1891年(明治24年)12月6日 - 1960年(昭和35年)2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。静岡県生まれ。 現場叩き上げの指揮官として太平洋戦争の海上戦闘で数々の武勲を立てたが、特に「奇跡の作戦」といわれた『キスカ島撤退作戦』を指揮し、味方に死傷者を出すことなく5000名余の日本将兵の撤退を完了させた事績で名高い。 ==略歴== 静岡県静岡市紺屋町で弁護士の父・近藤壮吉(代言人、大正5年病死)母・すず(東京女子師範卒、帝国女子医専舎監)の次男として生まれる。生後すぐに木村家(母の実家、元鳥取藩士)の養子となり、木村家の籍に入った(このため木村の本籍は鳥取県鳥取市となった)が、養育は引き続き静岡の近藤家で行われた。 旧制静岡師範学校附属小学校、静岡県立静岡中学校(卒業席次は80人中39位)より海軍兵学校第41期入校。席次は入校時120名中84番、卒業時118人中107番。同期に草鹿龍之介、大田実、市丸利之助、田中頼三らがいる。 いわゆる「車曳き」(駆逐艦乗り)と呼ばれた生粋の水雷屋として軍歴を過ごした人物で、開戦時は巡洋艦「鈴谷」艦長。1943年2月に第3水雷戦隊司令官に着任。ビスマルク海海戦で重傷を負い、復帰後第1水雷戦隊司令官に着任。7月にはキスカ島撤退作戦を成功させる。1944年にはレイテ島挺身輸送作戦「多号作戦」を二度指揮して成功させ、さらにミンドロ島の米上陸地点への突入作戦「礼号作戦」をも成功させた。 その後、海軍兵学校防府分校長、防府海軍通信学校長(兼任)として終戦を迎える。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木村昌福」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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