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市川正二郎[いちかわ しょうじろう]
市川 正二郎(いちかわ しょうじろう、1913年1月9日 - 没年不詳)は、日本の俳優、実業家である〔キネマ旬報社, p.54.〕〔''市川正二郎''、日本映画データベース、2012年11月16日閲覧。〕〔''木村正二郎''、日本映画データベース、2012年11月16日閲覧。〕。本名牧野 正(まきの ただし)、旧芸名市川 小松(いちかわ こまつ)、木村 正二郎(きむら しょうじろう)〔〔。 == 人物・来歴 == 1913年(大正2年)1月9日、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に生まれる〔。 1918年(大正7年)、数え年6歳のころに二代目市川松蔦に入門し、「市川 小松」の名で舞台に立つ〔。その後、東京府立第七中学校(旧制中学校、現在の東京都立墨田川高等学校)にするも、中途退学する〔。1932年(昭和7年)、数え年20歳(満19歳)のときに、京都・太秦の新興キネマ(のちの新興キネマ京都撮影所、現在の東映京都撮影所)に入社して「木村 正二郎」と改名、同年6月30日の公開された、長谷川伸原作、松田定次監督による『伊太八縞』を「第1回主演作品」として映画界にデビュー、同作での相手役は山路ふみ子であった〔〔〔伊太八縞 、日本映画データベース、2012年11月16日閲覧。〕。翌1933年(昭和8年)8月3日公開の松田定次監督による主演作『半次月夜の唄』〔、あるいは同年8月9日公開の広瀬五郎監督による主演作『雪の肌蜻蛉組』〔をもって、「市川 正二郎」と改名する〔。同社と提携していた、嵐寛寿郎プロダクション作品にも出演し、嵐寛寿郎主演映画の脇役を務めた〔。1934年(昭和8年)6月14日公開、山上伊太郎監督の『兵学往来髭大名』を最後に、同社を退社する〔。 同年夏、日活京都撮影所に移籍、同年9月23日公開、同撮影所が製作した辻吉郎監督の『槍供養』に主演する〔。当初は主演作もあったが、次第に片岡千恵蔵、阪東妻三郎等の剣戟スター主演作の脇役にまわるようになる〔。当時はすべてサイレント映画であったが、1935年(昭和10年)12月1日に公開された、日活・太秦発声映画共同製作、児井英男(のちの映画プロデューサー児井英生)・池田富保共同監督による黒川弥太郎主演作『敵討三都錦絵』に出演し、これが正二郎にとっての「トーキー初出演」となる〔。以降の出演作はすべて、トーキーとなった〔。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活京都撮影所は大映京都撮影所となり、同年2月19日公開、丸根賛太郎監督の『江戸の龍虎』に出演したのを最後に、同社を退社する〔〔。 第二次世界大戦中は、召集を受けて軍隊に入ったり、除隊して舞台実演の巡業を行なったりを繰り返していたが、終戦後、1947年(昭和22年)に俳優生活からリタイアした〔〔。翌1948年(昭和23年)に結婚し、書店経営等を行なっていたが、埼玉県熊谷市の老舗「廣川」からのれん分けし、1967年(昭和42年)、京都府京都市右京区嵯峨に「うなぎ屋 廣川」を開業した〔〔ご挨拶 、うなぎ屋 廣川、2012年11月16日閲覧。〕。同店は2012年(平成24年)11月現在も営業中であるが、正二郎自身の正確な没年月日等は不明である。子女は2男1女をもうけた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市川正二郎」の詳細全文を読む
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