翻訳と辞書
Words near each other
・ 木村浩一郎
・ 木村浩一郎 (デザイナー)
・ 木村浩之
・ 木村浩也
・ 木村浩吉
・ 木村浩吉 (サッカー選手)
・ 木村浩吉 (海軍軍人)
・ 木村浩嗣
・ 木村深華
・ 木村清
木村清久
・ 木村清之助
・ 木村清司
・ 木村清四郎
・ 木村清孝
・ 木村清松
・ 木村瀬平
・ 木村熊二
・ 木村熊治
・ 木村玉之助


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

木村清久 : ウィキペディア日本語版
木村清久[きむら きよひさ]
木村 清久(きむら きよひさ、生年不詳 - 慶長20年(1615年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名豊臣氏の家臣。木村吉清の子。通称は弥一右衛門。別名は秀望。キリシタンで洗礼名はジョアン。
==概略==
豊臣政権にあっては奏者的地位にあり、天正14年(1586年)には石田三成増田長盛と連名で上杉景勝に上洛を促す書状を、天正18年(1590年)の小田原征伐に際しては伊達政宗に参陣を催促する書状を送っている。奥州仕置後、父とともに奥州入りし、蒲生氏郷与力になり、葛西氏の重臣の居城であった名生城に入城し統治を行ったが、父の苛政のため領内では一揆が勃発。事を大事と見た清久は対策を練るため父の居城寺池城へ赴くが、その間に葛西大崎一揆が勃発してしまう。一揆は伊達政宗の煽動もあって大規模化し、結局木村氏は独力では一揆を鎮圧できず、戦後改易された。
後に父の遺領である豊後国1万4千石を継ぎ大名となる。このころ豊臣秀吉の偏を受け秀望と名乗ったか。関ヶ原の戦いでは丹後田辺城(舞鶴城)攻撃隊に参加し、近江勢田橋を守ったが、守りきれず敗走。戦後改易される。慶長20年(1615)年、大坂夏の陣大坂城に入城し、討死した。


category:1615年没

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「木村清久」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.