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木村 熊二(きむら くまじ、弘化2年1月25日(1845年3月3日)) - 1927年(昭和2年)2月28日)は、日本のキリスト教牧師・教育者。明治期、妻の木村鐙子とともに東京において明治女学校を創設、またその後移った長野県小諸で小諸義塾を開設した。牧師として島崎藤村に洗礼を施したことで知られ、のちに藤村を小諸義塾の教師に招いている。名は熊治とも表記される。 ==略伝== === 生い立ち === 出石藩の藩儒桜井石門の次男として京都に生まれ、5歳で出石(現在の兵庫県豊岡市出石町)に移る〔。日本の天気予報の創始者とされる内務官僚の桜井勉は実兄。8歳で江戸に遊学し、10歳で木村琶山(石門の弟子)の養子となった〔。 江戸では昌平黌で佐藤一斎、安積艮斎に学ぶ。一斎の縁戚である田口卯吉らと知りあい、同居している。21歳の時に田口鐙子(とうこ、田口卯吉の異父姉)と結婚〔。 木村は幕府に仕えて徒目付となる〔。同じく幕臣である洋学者の乙骨太郎乙とは生涯親交を結ぶ〔坂本(1997)p.12〕。戊辰戦争・江戸幕府瓦解に際して木村は勝海舟の下で活動するが〔、新政府軍に反抗し、その追及を受けることになるも〔、処罰を免れた。一番町教会で植村正久から洗礼を受ける〔高橋昌郎2003年129頁〕。明治元訳聖書(1880年(明治13年)完成)の新約聖書翻訳委員としても活動した。 明治3年(1870年)、森有礼が少弁務使として渡米する際、外山正一、名和道一、谷田部良吉と共に随行。やで学び〔、牧師としての試験に合格して、1882年(明治15年)に帰国〔〔。熱心なキリスト教的教育者として主に女子教育に従事する。 妻の鐙子も日本一致長老教会(植村正久が創立した横浜バンド系の教会)の下谷教会で婦人会を作ってキリスト教普及の活動を行った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木村熊二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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