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木村 立哉(きむら たつや、1964年 京都市 - )は、日本の映画プロデューサー、エッセイストであり、葛飾 ホックニー(かつしか-)の名で、音楽プロデューサー、イヴェント・オーガナイザーとして「Picture Yourself Sound School」を組織、またCMディレクターの遅塚勝一とのDJトークユニット「亜湖派とかほり派 (あこはとかほりは)」のメンバーとしても活動、超絶記憶力を駆使した歌謡曲トークの名手としても知られる。演劇やサウンドドラマの脚本や原案の発表作もある。 == 来歴・人物 == === 木村立哉として === 1964年、京都市東山区五条坂に生まれる。曾祖父は陶芸家6代目木村清山(木村仙之助)、祖父は同7代目木村清山であり歌人の木村二瓶子、伯父は剪紙作家木村祥刀(漫画家木村光久)〔木村祥刀・切り絵の世界 の記述を参照。〕。その後東京都および千葉県へ転居し、千葉県立東葛飾高等学校、早稲田大学第一文学部を卒業。 1981年の高校在学中に習作の短編小説を学内で発表するとともに、8ミリ映画製作、映画上映会・鑑賞会、のちの「Picture Yourself Sound School」での活動に通じる数々のイヴェントを仕掛け〔「A&G Co.全仕事1981-2005 」の記述を参照。〕、また同年、音楽批評、映画批評を書き始め、『よい子の歌謡曲』誌等に発表。大学に入学した1983年から梅本洋一に師事し、書籍編集をサポートする。大学時代の語学クラスの同級生に栗原美和子、戸田山雅司らがいる〔暴れん坊ママ magnoria/ウェブリブログ の記述を参照。〕。 1991年、石井輝男監督の『ザ・ヒットマン 血はバラの匂い』に助監督としてつく〔『月はどっちに出ている - 崔洋一の世界』(崔洋一ほか共著、日本テレビ出版部、1993年 ISBN 4-8203-9416-9)の記述を参照。〕。 1993年、梅本洋一責任編集『季刊カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』誌の初期に参加する。1995年 - 1996年、アートブック『グローバル・ロコ』を主筆として編集発行・DTPデザインをこなし、同誌上で脚本家の奥寺佐渡子にマンガを執筆連載させた。 テレビドラマにくわしいことでも知られ、1997年には『ユリイカ - 詩と批評 -』誌上に北川悦吏子論を発表したのを初めとして、同誌上にテレビドラマ時評を連載、1998年からは「TVぴあドラマ大賞」審査員を北川昌弘、小泉すみれらとともに2000年の同賞の休止までつとめ、2008年からは「Invitation Awards」(『Invitation』誌主催)テレビドラマ部門の審査員を北川昌弘らとともにつとめている。 小説家坂口安吾に関わり、1990年代初頭から安吾の妻三千代の執筆した自伝的エッセイ『クラクラ日記』の映画化を目論み、三千代や長男綱男、当時安吾の小説『白痴』映画化を企画中の手塚眞らと交流、のち2000年から安吾を偲ぶ「安吾忌」の事務局を七北数人らとつとめる。2005年、新潟市の安吾情報サイト「坂口安吾デジタルミュージアム」に企画として参加〔坂口安吾デジタルミュージアム の記述を参照。〕。手塚の主宰した「坂口安吾映画祭」(2006年)に協力、東京・渋谷の「シアター・イメージフォーラム」での手塚とのトークライヴに出演した。『クラクラ日記』は現在も映画化にいたっていない〔Tezka Macoto' 6D -手塚眞ブログ-: ANGOFF 3 の記述を参照。〕。 2004年、福岡で行なわれた「第49回アジア太平洋映画祭」事務局に参与として参加、2005年12月、「2005函館港イルミナシオン映画祭 第9回シナリオ大賞」審査員を崔洋一、飯田譲治、荒俣宏らとともにつとめる〔2005函館港イルミナシオン映画祭 第9回シナリオ大賞【審査員】決定! 〕。「城戸賞」選考委員(2003年 - 2007年)として、和田竜、尾崎知紀、田中幸子らを発掘した。 現代美術やコンピュータテクノロジにも造詣があり、2001年 - 2002年には『サイゾー』誌に『木村立哉のアート紀行 - 現代なのか、美術なのか。』を連載、2006年には『ユリイカ - 詩と批評 -』誌上に横井軍平論を発表するほか、2006年2月、世界で初めてのナム・ジュン・パイク追悼イヴェントとなった、東京都現代美術館での「ナム・ジュン・パイク追悼・東京ミーティング」実行委員を赤瀬川原平、坂本龍一、石黒敦彦らとともにつとめた〔【募集中】ナム・ジュン・パイク追悼「トウキョウ・レクイエム」 2006-02-21 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木村立哉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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