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木村立嶽[きむら りつがく] 木村 立嶽(きむら りつがく、文政10年(1827年) - 明治23年(1890年)9月9日)は幕末から明治時代にかけて活躍した狩野派の日本画家。幼名は専之助。雅経、立嶽は号。狩野芳崖、橋本雅邦、狩野勝玉らと共に狩野派四天王と称され、後にフェノロサらが提唱する新しい日本画を創造する活動に加わった。 == 略伝 == 現在の富山市南田町に、木村定吉の第7子として生まれる。父は仏師として修行しながら、仏壇の指物師・宮大工を生業にしていた。6歳頃から藩画師に入門。藩主・前田利保の推薦で江戸へ行き、木挽町狩野家の狩野栄信・養信に師事。16歳で藩士に取り立てられ、20歳で狩野派を修め、「雅」字を拝領し雅経と名乗る。嘉永元年(1848年)の時、藩命で富山へ戻り、殿中に「松図」を揮毫する。藩主はその画技を高く評価し、地元の名岳(嶽)立山に因んで「立嶽」の号を与えたという。最初は江戸と富山を往復する生活だったが、嘉永4年(1851年)木挽町画所を辞して富山へ帰り、藩主に絵を指南する。この頃『本草通串証図』(全94巻)の制作にも参加し、極彩色の花卉図などを手掛けている。万延元年(1860年)幕命で江戸の木挽町画所へ復帰し、代替わりした狩野雅信に師事。同門の芳崖、狩野友信らと江戸城杉戸絵の制作を担当する。 慶応4年(1868年)、徳川家達の駿府行きに雅信が随行したため同行。翌明治元年新政府の命で、奈良の神武天皇陵へ派遣されこれを写生し、荒廃した御陵域の修理にあたった。その後も奈良社寺宝物取調掛として調査を行う。明治8年(1875年)9月内務省図書寮に出仕し画図掛となる,神武天皇御陵図を製作、これを元に現在の神武陵が出来上がった。しかしその一方で生活には困窮し、明治11年からは芳崖と共に精工社の陶器画や漆器の下絵を描いて糊口をしのぐ。明治14年(1881年)の第二回内国勧業博覧会では、陶器画で妙技二等賞受けている。翌年農商務省勧農局より植物写生掛を命ぜられ、日本中の産物の写生図を描く。同年第一回内国絵画共進会で褒状。この頃、フェノロサと出会いその意見を取り入れた作品を手掛ている。明治17年(1884年)第二回内国絵画共進会に「人物」と「山水」を出品し再び褒状を受ける。同年結成された鑑画会に主力メンバーの一人として、新しい日本画を目指す活動に加わった。明治23年(1890年)横浜で没した。享年64。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木村立嶽」の詳細全文を読む
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